山もだいぶ色付いてきた。今年の紅葉は、特別綺麗で色鮮やかという感じではないが、かといって、みすぼらしく物足りないほどでもない。ただまあ、普通かと言われると、ちょっと冴えがないかもな、とは思う。この時期は、まだ緑色をたたえた木もあれば、色付く木もあれば、早々に葉を全て散らして冬景色に入っている木もある。風が吹かなくても、葉はひらひらと落ちていく。そして山に溜まっていく。
気象庁の話だと、12月もそれほど寒くはならないらしい。もしかしたら、気候が変わって、私が記憶している冬らしい冬は、もう来ないのではないかと思うことがある。他のニュースでは、温暖化の進行で、蔵王の樹氷が見られなくなるのではないかと言う話も聞いた。徐々に、私の知っている季節では無くなっていき、「日本の風物詩」と言われているものも、消えていくものが出て来るかもしれない。
そう考えると、なんとも残念な感じがするし、大げさに言えば故郷を失うような喪失感もある。一方で、温暖化が進行するのなら、その新しい気候にあった生活様式に変えて行ったり、新しい気候に合った農作物を育てて行けばいいと言う人も現れて来るだろう。今10代、20代の若者たちは、30年前や40年前の気候風土を懐かしむような記憶は持ち合わせていない。
ただなぁ、もし日本がハワイやタヒチみたいな気候になった場合、その時、日本人は日本人らしさが残っているかどうか。
そんな事を思いつつ、かといって、ここでどこかの火山が大爆発とかして、大量の火山灰が地球の上を覆って日照を遮って、急速に寒冷化が進むことだって、ぜんぜんありえない話ではない。フィリピンのピナツボ火山とか、そのような影響を与えた火山なら、ここ数十年の間にもいくつもある。
温暖化にしろ、寒冷化にしろ、人間には制御できない問題でもある。もちろん、かといって私は、温室効果ガスの排出削減は無駄だと言っているのではない。やるべきだと思っている。でも、温室効果ガスの排出を全て止めたとしても、温暖化の進行を防げないというかのせいもあるかもなぁ、とは思っている。
地球の歴史をひもとけば、人類の活動が無い時だって、今よりも温暖だった時期もあれば寒冷だった時期もある。人間の努力で地球の気候が変化可能だと考えるのは、少々、傲慢なのではないかとも思う。
じゃあ、それでも私が温室効果ガスの排出削減をすべきだと考える理由だけど、それは、この星に暮らす以上、あまり星に悪影響を与えかねない行動は慎むのが、星に対する礼儀だと思っているからだ。まあ、星に対して礼儀も何もなかろう、と思う人もいるとは思う。
そんな事を考えながら、気候変動に伴う未来の変化に対して、不安も感じれば、何らかの対策を講じるべきだとの思いも湧き上がる。心配は常について回るのだが。
ただその反対に、ちょっと極端だけど、心配しても仕方なかろう、という気持ちもある。心配することは大事だし、対策を講じて実行するのはもっと大事だけど、心配するあまり、自分自身が心配に取りつかれてしまうのは危険だし、無意味だと思っている。
最後の最後は、世の中がどう変わろうと、人間なんて、快食、快眠、快便だけで十分に幸せだろう、くらいの、豪快な開き直りといった境地も必要だと思う。
人間にとって、心配という行為はやっかいなものでもある。小説「星の王子さま」に、酒を飲んでいる自分が恥ずかしいので酒を飲む、という酔っ払いが出てくるが、「心配」にも同じ現象が出ることがある。
何かについて心配している人間が、心配するあまり、他に何もできなくなってしまう。すると、「心配しすぎて何もできなくなっている自分が心配」という状態に陥る。こうなると、なかなか自分自身の力では、その穴から抜け出せない。
心配しすぎて髪の毛が抜けて行く、このままでは禿げるのではないかと心配し、余計に禿が進行する。そしてますます心配は加速する。
禅宗だったら、ここらで「喝」と叫んで、その心配の悪循環の輪を絶つ所だ。
以前の日記で、環境問題も大事だけど、人間関係の中の環境問題も大事ではないかと書いた。温室効果ガスの排出削減も大事だが、あなたの口から、周囲の空気を悪くするだけの悪徳を垂れ流してはいないか、という問いは、やはり大事だと思っている。
環境問題は、今後も深刻に考えて行かなければならない問題だし、この傾向は強く成る事はあっても弱くなる事はあるまい。ただ私には、それに合わせて、心の中の環境問題についても、深めていく需要は増していくだろうな、と考えている。
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