上の写真の木、白い花が咲いているけれど何の木かは判らない。ニセアカシアにしては時期が過ぎているし、エゴノキの花びらの形ではない。まあこの時期、似たような白い花を咲かせる木は色々あるけどね。
山の木々は、もはや常緑樹も落葉樹も、それほど緑の色合いの濃さに差が無くなってきた。一週間前だったら、明確に落葉樹の葉っぱの方が薄い緑色と判る感じだったけれど。これから山はいよいよ緑一色になっていく。それに、5月の20日、6月の20日、7月の20日と、夏至を挟んだ2か月間に入れば、一年で最も日差しは高く、日照時間も長い期間になる。もう日差しは十分に夏のものだ。そうはいっても、朝晩は少し寒い事もあるけれど。
昨日と今日、藤野でも最大規模のイベントである陶器市があった。藤野各地の拠点で登記の展示販売が行われたり、陶芸家のアトリエが見られたりする。この陶器市も、とうとう25年になったそうな。四半世紀とは長いねえ。
この陶器市、例年は開催される土日の片方、もしくは両方の日に雨が降る事が多い。それが今年は二日とも雲一つない快晴に恵まれた。日差しの強い所では汗ばむくらいだったけれど、吹き抜ける5月の風は爽やかだった。こんなに天気に恵まれた陶器市も珍しい。
こういったイベントの場で、久しぶりに会う人と話をしたりする。逆に言えば、こういったイベントが無いと、何年も直接会う機会のない人だっているという事で、やはり晴れの日の祭りというのは地域にとって大事なんだと思う。
これまでこの日記で、人としての強さ、問題に直面した時の、前向きに解決していこうとする底力を、どうやってつけて行けばいいかと書いてきた。それは裏を返せば、現代の人々に、そのような活力が失われつつあるのではないか、という危惧が私にあるという事だ。
何か問題に直面した際に、愚痴を言うだけで立ち直れなくなり、そのまま悲しみに沈んでしまうのは、やはり望ましくないだろう。そこからどうやって、「じゃあ、どうする」と、問題に立ち向かう方向に姿勢を立て直して、挑戦的に行動を起こせるか。
ここで思うのは、保守と革新についてだ。やはり、問題に直面した時に、「じゃあ、どうする」と考えて、アイデアをひねり出し、実行に移そうと歩み出すのは、保守よりも革新寄りの人間だと思う。別に私は保守よりも革新の方が優れているとは言わないが、こんな、何か問題に直面した時に、「じゃあ、どうする」と考え始める革新に比べて、保守側は、何か新しい事をするよりも「我慢する」事を選ぶ傾向がある。
何か問題がある時に、革新側は、「何か世の中の仕組みや、人々の考え方に問題があるのではないか」と、世の中を変えようと考えるが、保守側は「世の中とはそういうものだ、ここは耐えて我慢しよう」と考える。
言っておくが、我慢だって美徳ではある。
ただ、世界の歴史を振り返ってみても、この世で初めて馬に乗ってみようと考えた人間は、そうとうな変わり者だったろうし、初めてホヤを食べようとした人間だって同様だろう。「今までとは違う何か」を目指した人間たちによって、科学技術の進歩だってあったに違いない。
さて、日本と言う国は、保守的になるあまり、革新的な人間がすっかり少なくなっている。少し厳しい考え方になるが、私は、革新的な人間のいない国や民族と言うのは、既に死に至る病に侵されているのではないかと思っている。
特に、若者に革新的な人間が現れないのは、病としては相当深刻だと思っている。基本、千古不易、洋の東西を問わず、若者と言うのは現実を否定して、現実よりもずっと望ましい世界を希求するものだ。それが例え、若者の未熟で経験不足で世間知らずの無知から発する夢想だったとしても、若者は、現状よりももっと良い何か、を希求するものだと。
多くの場合、それら若者の希求は現実の壁に直面して、修正を余儀なくされる。そこでいわゆる「丸くなる」といった過程を経ることになるのだが、出発点は、それは愚かに見えるかもしれないが、自分が失敗するなんて考えもしないで、未来に挑戦していく若々しさがあったはずだ。
日本と言う国に対して、「老いたのかな」と思う瞬間がある。若さとは、時に愚かで過激で迷惑な振る舞いに及ぶ。しかしそこには、「今までとは違う何か、こことは違うどこか」へと挑戦していく、成熟した大人には失われた情熱も内在していた。
そんな若さを失った時、人々は、何か問題に直面した場合でも「じゃあ、どうする」と前向きに考える力も、失ってしまうのではないか。
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