明日は冬至になる。先週に同じく、今週も土日に雨が降った。ちょうど、自分が参加している田んぼの仲間で、餅つきを行う日になってしまったが、幸い、雨の止み間にすることができた。やはり、餅つきを行うと、いよいよ今年も終わりになったという実感が出てくる。そういえば、今年の漢字は熊になったのかな。やはりというか当然と言うか。
雨にはなったが暖かい。明らかに丹沢の山頂でも雪にはならないだろうなぁと確信できるくらいの暖かさだった。これからの一週間は、予報では雨もあってか、あまり寒くはならないらしい。道路の凍結も心配はいらないようで、今回の雨では、行政も道路に凍結防止の塩カルは撒かなかった。
以前、ここの日記で、これからどんな基準で物事を考えて、世の中が動いていくかについて書いて、私はそれを「ブラックかホワイトか」という基準なのではないかと書いた。前々回の日記では「正義」について、ブラックな正義とホワイトな正義があるのではないかと書いている。一部引用すると、
『正義って、それをそのまま、何の注意も反省も無く使うと、「正義ではないものは悪だ」「だから正義は勝たなければならない」「正義なんだから勝つに決まっている」という、相手を打ち負かす思想に容易に発展する。しかし、相手を悪と決めて打ち負かして滅ぼすのはホワイトなのかどうか。
どうも世の中には、正義と悪とも違う、より高次の価値観があるのではないか、という想像が働く。』
同じことは、「愛」についても言えるんだろうな。愛情は人間にとって、善とされる特質だけど、ストーカー犯罪のように相手を破滅させる愛もある。親が子を「愛すればこそ」という熱意で、猛烈な詰め込み教育をさせた挙句、帰って子供が歪んで成長する事もあるだろう。これはブラックな愛かホワイトな愛か。
「正義」と同様、「愛」も、一見美名に聞こえるが、実は当人の欲望(エゴ)から出発している場合が多い。
「愛国心」という感情が厄介なのも、この点だろう。例えば、ここに森があったとする。ある人は、この森を切り開いて農園にしようと言い、ある人は工場を誘致しようと言い、ある人は森をそのまま残して自然公園にしようと言い、ある人は森を一部残して観光地にしようと言うかもしれない。そして、それぞれの人々が、「私が一番、この郷土を愛している。私がこの提案をするのは郷土を愛しているからだ」と力説している。
当然、これらの提案は、どれかは成功し、どれかは失敗するものだろう。そして、成功した提案は人々を幸福にするし、失敗した提案は人々を不幸にする。
ここで強調しておきたいのは、どうも世の中の多くの人の中には、「私は国を、郷土を愛している」と言うだけで、自分が正義で善の立場に立てると勘違いしている事だ。「私は国を愛している、だから私は正しい」、ではなく、「あなたの愛し方は正しいか」を常に問われている事を自覚しなければならない。
先にストーカー犯罪の例を出したが、国を繁栄させる愛もあれば、国を破滅させる愛もあるという事だ。なので、「国を愛する」と主張する人は、どのような愛が、国を繁栄させる愛し方で、どのような愛が国を破滅させる愛し方か、その両者の境界線はどこにあるのか、説明できる深い考察がなければならない。
太平洋戦争での決定的な日本の敗北には、様々な教訓が残されたが、私には、その教訓の最たるものは、「愛国者が国を亡ぼす」という皮肉にあると考えている。そして、まだ日本人全体としては、この皮肉に対する明確な答えを出していないと私は思う。
また、男女間や親子間の愛情と違って、国とか郷土に対する愛とか、他に趣味とかに注ぐ愛には、問題があると考えている。男女間や親子間といった人間同士の愛であれば、愛する対象は当然、自分以外の人間、つまり「他者」になる。他者であれば、私が他者に対して注いだ愛情に対して、他者からの、別人格ならではの返答が帰って来る。
例えば私が相手に何かプレゼントをしたとする。それに対して相手は、嬉しいと喜んでくれる場合もあれば、「なんだこの最低なセンスは」と逆に軽蔑されて嫌われる場合もある。しかし、愛国心の場合はそうもいかない。先に挙げた例のように、森をどうしようかと言う話の場合、「この森を切り開いて農園にしよう」と言う人に対して、森は「それはうれしい、ぜひそうしてくれ」とも、「それは困る」とも言わない。せいぜい、地域住民の反応はあるかもしれないが、それは「他者」からの明確な返答ではない。
つまり、提案した側は、「国はこうあるべきだ」と言っても、当の国は「それは嬉しい」とも「それは困る」とも返答はしない。そりゃあ、その意見に対して、それぞれ賛同する人もいれば反発する人もいるだろうが、「国そのもの」は黙して語らない。
私は、このような愛の形は、人間同士の愛よりも危ういと思っている。人間同士であれば、例えば変態的な愛を相手に求めれば、いつかは拒絶される時が必ず来るが、国のような抽象的な概念に対する愛は、いくらでも無制限に自分ならではの愛を託し続ける事が出来るし、それを止めるすべはない。
そんな危うさを理解する上でも、その愛の形はブラックなのかホワイトなのか、という問いかけは、無意味ではないと考える。
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