土曜日の夜から雨が降った。霧雨のようなサラサラした雨ではなく、雨どいからコロコロと水音が響く程度の、きちんと水量を伴った雨だった。ただ、そこまで気温が低くならなかったせいか,丹沢の山の上でも雪にはならなかったらしい。インフルエンザが流行して、あちこちの学校で学級閉鎖とかあるみたいだから、少しは湿り気が戻ってきたのは良かったのだろう。
土曜日の夜からの雨は、日曜日の午前中にはあがった。そして夕方には晴れ間も出てきたが、道路には塩カルが撒かれていた。こんなふうに湿り気が残った翌朝に冷え込みがあれば、道路は一気に凍結する。馴染みの店で来年のカレンダーをもらい、来年の手帳を買う。雨が通り過ぎれば、また西高東低の気圧配置になるのだろうか。そうなると、また季節風が吹き抜けるようになるだろう。山の木々も、紅葉の葉を残したものは、もはや1割もない。来週には冬至が控えている。
今年はどんな年だったかを振り返った時、一つ思いつくのは、私自身にとっても、人工知能が生活の場に入ってきたなぁ、と感じさせた年だった。この日記でも、人工知能が音楽を作ったりしているのを見て、凄い時代になったものだと書いたりしてきた。そして、人工知能に依存して、人工知能にまかせっきりで作る音楽よりも、自分自身の音楽の技能と経験と、音楽に寄せる情熱を持った人間が人工知能を使った方が、より良いものが出来るのではないか、と言った事も書いた。
最近、こんな動画を見て笑ったのだけど、これでも同じことを思った。やっぱり、人工知能を使うなら使うなりに、その人なりの意欲とか、感性とか、蓄積してきたものとか、いろいろ必要だと思う。そして、そういったものを、持っている人にとっては、人工知能は、ものすごい協力者になるんだろうな。
もう、一人で映画だって撮れちゃう時代が、すぐそこまで来ているけれど、「人の心に染み込む作品」となると、何か面白い事をやってやろう、という強い衝動が必要になるんだろうな。
仕事先などで、新しい企画を考える際に、気軽に人工知能が使われる場面に出くわす事が増えた。確かに、何かを始める際に、そのたたき台を作る目的なら、必要十分な提案をしてくれるし、たいがいの質問には答えてくれる。問題は、それらのたたき台を踏まえて、人間がそれ以上の何かを創造できるかなのだけど、これからは、想像できるくらいじゃないと、仕事として認めてくれなくなる時代になるかもしれない。
「えーと、ななた(あなたの会社)の仕事って、人工知能で十分ですよね」
なんて言われたら、誰も仕事としての価値を認めてくれなくなってしまう。
ちょっと怖いなと思うのは、仕事の現場では、人工知能以上の能力を求められるのに、日常の世界では、自ら問題にぶつかって解決していく能力が衰退してしまっていないか、という事。何しろ、大概の解決策は人工知能が出してくれるから。
コンピューターが発達して、インターネットが普及して、私が驚いたものは「検索」だった。必要としている情報が簡単に手に入る。でもここまでなら、自ら情報を集めて、そこから考えて答えを導く出す役割は人間にあった。それが人工知能の時代になると、答えがそのまま与えられる。
こんな環境が当たり前になると、人間に、問題解決能力がどんどん失われてしまうのではないか。その一方で、人工知能では得られないような独創的な解決策を出さないと、人間の仕事としては認められない。
正直、そんな時代が、人間と、人間の社会にどんな影響を与えて、世の中を変えていくのか、私には想像もつかない。ああそうか、どんな世の中になるか、人工知能に尋ねればいいのか(笑)。
ただなぁ、私は何も、文明の利器に頼るなとは言わないし、何でも自分一人の力だけでやり通せとは言わないけれど、誰の助けも無い状態で、たった一人で孤独な格闘をして、道を拓いていく力をつける機会も、必要だと思っている。
私はここの日記に写真を出しているけれど、これが人工知能が生成した画像になる事はない。なぜなら、それはつまらないから。
どんなに平凡な日でも、どんなにありふれた見慣れた景色でも、一度その現場に行って、体当たりでその現場を歩き回っていれば、何か「思いもよらなかった」風景に出会うものだ。その「思いもよらなかった」経験が欲しくて、私は風景を探し続けているのだろう。
人工知能以上の何かを求めるのなら、そんなふうに、現実にとりあえず生身で体当たりして、思いもよらなかった経験をする必要があると思う。
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