師走に入る。週の半ばに強風が吹き荒れ、日本海側で雪になった。それまでしぶとく枝にしがみついていた、桑や桐の葉も一斉に落ちで、山は一気に冬景色へと変わった。まだ1割ほど、葉を残した落葉樹もあるけれど、もう実感として、空気が変わったと判る。晩秋から初冬へと入った。私とうとう、小型の電気ストーブでは物足りなくなり、灯油のストーブを使い始めた。
これまでのんびりと秋が続くような感覚でいると、こんな時、急な水道の凍結で慌てることになる。凍結だけですめばいいけれど、水道管が割れるようだと大変で、たいがいこういう時は各地の家で同時多発的に水道管が割れているので、なかなか水道屋さんが修理に来てもらえない。順番待ちならしかたがないが。
餅つきはいつにしようか、とか、集会所などの公共の場所のすす払いはいつにしようか、とか、年末らしい話題には事欠かない。こんな慌ただしい空気の中、今年も終わりに向かっている。
今年もいろいろ思う事はあったけれど、やはり一番、自分の中で感じたのは、これからしばらく、世の中を考えていく上での基準になるのは、それがブラックか、ホワイトか、というものになるんじゃないかな、ということ。これは以前、ここの日記でも書いた。
資本主義とか社会主義とか、保守とか革新とか、右とか左とか、いろんな分け方があるとは思うけれど、私の印象では、それらの分け方があまり意味を持たなくなりつつあるし、それらの分け方に、あまり人々が関心を持たなくなってきている。これは、このような分け方が、この世界を考える基準では物足りなくなり、この世界を動かす動力源としても物足りなくなっているという事でもあるのだと思う。
ただそんな世の中でも、「あなたはブラックなのか、ホワイトなのか」という問いかけは、人々にピリッとした緊張感を与え、人々に「はて、私はどっちだろう」と考えさせる力を持ち、「私はホワイトだ」と言い張りたい人々は、必死になってその根拠を並び立て、自己弁護をするくらいの力をもっている。逆に言えば、前述の、資本主義とか社会主義とか、保守とか革新とか、右とか左とかには、そのような力を感じない。
なんか、主義主張よりも、もっと根源的な所で、物事が問われ、時には裁かれる時期に入っているんじゃないかなぁと、思うのです。
ブラックか、ホワイトか、という問いかけは、どちらが正しいとか正義とかいう話とも少し違う。正義かもしれないが、人々に対して愛情や優しさのない正義は、やはりブラックと処断されるだろう。もちろん、人々に対して愛情と優しさのある悪はホワイトになるかと言えば、そうではないが。
その意味では、少し宗教的な雰囲気もあるかもしれない。今も口角泡を立てて議論に熱中する人は多いかもしれないが、「その議論の仕方は、ブラックなのか、ホワイトなのか」と言う問いかけも、これから出て来るかもしれない。まあ、それなら「ホワイトな議論の在り方って、どんなものなんだ」という問いになってくるが。
正義って、それをそのまま、何の注意も反省も無く使うと、「正義ではないものは悪だ」「だから正義は勝たなければならない」「正義なんだから勝つに決まっている」という、相手を打ち負かす思想に容易に発展する。しかし、相手を悪と決めて打ち負かして滅ぼすのはホワイトなのかどうか。
どうも世の中には、正義と悪とも違う、より高次の価値観があるのではないか、という想像が働く。私が思うようになったのは、「ブラックかホワイトか」という問いかけであり、別の人なら、「それは礼だ」という人もいるかもしれないし、「信仰だ」とか「品格だ」とか「慈愛だ」とか、いろいろ言葉が出てくると思う。
私としては、こういった、単なる「正義と悪」といった単純な分け方ではなく、それより高次な視点から、正義も悪も超えた所から物事を考える流れになってくれたら、面白くなるなぁと思っています。まあ、来年がそんな年になるとは思っていませんが。
ただなぁ、もしかしたら、流行りの人工知能が、そういった高次の価値観を提示するようになったらどうだろう。私は決して、それが無いとは言い切れないんですけどね。
人工知能の会話による受け答えが、人間よりも公平で先入観がなく、偏りも無く、それでいて感情論に流されず、反対意見にたいしても粘り強く、優しく返答し、人々に対して「善」であろうとする。
これはもはや、神と言うには大げさだが、宗教の教祖と言っても、見分けはつかないと思う。
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