2025年6月29日

 6月も終わりに近づき、今年も半分を終えたことになる。今年の梅雨はどうやら空梅雨らしい。この週も雨が降ったのは二日程度だった。こうなってくると夏の水不足が気になって来る。

 前回の日記で牧馬峠の北側で土砂崩れがあって、道路が通行止めになった事について書いた。これは、わりと速やかに崩れた土砂が取り除かれた。ただ今後も続けて土砂が崩れてくる可能性もあるので、道路は半分使用不能にして崖から距離を離し、信号機を設置して片側交互通行になった。ちゃんとした修復は、これから時間をかけてやっていく事になるのだろう。こんな道路の開通でも、通行止めの事を思えば大変に有難い。ここが通れないだけでも、目的の場所に行くのに随分な大回りをさせられた。

 崩れた現場を見てみると、崖に金網をかぶせて、その上に薄くモルタルを吹き付けているものだった。よく見れば、崩れた箇所の周辺部だって、だいぶ痛んでヒビも入り、次に崩れる順番を待っているような感じだった。

 こういった工法って、耐久の寿命はどのくらいなんだろう。もちろん、その土地の気候とかの条件で寿命も前後するとは思うけれど、施工後、何十年か経ったら耐用年数が終わったと判断して、崩れる前に工事し直すような仕組みにはなっていないのかな。崩れてから修復工事をするのが前提の道路行政というのは問題があるだろう。

 陽の当たる斜面で鹿が草を食んでいた。警戒心が強い生き物で、100メートル以上は離れているのに、写真機を構えている私の方をずっと気にしていた。そして、「ヒュイッ」と短い鳴き声を残して森の中に消えて行った。

 鹿もねえ、厄介なんだよなぁ。農作物の被害もあるし、なによりもそこらじゅうにヤマビルをばらまく。昔は鹿はおろかイノシシだって、めったに里には降りてこなかったのに、今では好き放題だ。

 昔は山の人間も肉に飢えていたので、鹿やイノシシが現れれば我先に鉄砲を持って仕留めにいったのだろうか。いや、里に現れる前に、人間の方が山奥へ分け入って、仕留めに行ったのだろう。そんな状況になれば、何も鹿もイノシシも好き好んで里には降りてこない。

 20世紀後半は、盛んに環境問題が議論され、人間の活動による自然破壊を抑制していこうと言う話がなされた。それ自体は間違っていないし、今だって引き続き重要な事だと思う。

 ただ私には、21世紀に入った頃からか、人間の力が自然の力に負けて、かつて人間が自然を切り開いて開発した領域が、また自然に帰りつつあるのではないかと思うことがある。前述の道路の土砂崩れもその一つだが。

 一度満ちた潮が、峠を越えてまた引いていくような状況になっているように見える。この後退、どのあたりまで続くのだろう。

 話は全然違うんだけど、最近気づいた話。地元のある高齢者施設で歌を歌う声が聞こえてきた。なんか私のイメージだと、介護施設とか、高齢者が集う場って、いつまでたっても歌う歌といえば「青い山脈」一択のような感じだった。でもそこで聞こえてきたのは安全地帯の「ワインレッドの心」。それも男女複数の人たちで思い出を語りながら。

 考えてみれば、この歌が世に出たのは1983年。既に42年経っている。今の高齢者だって、この曲を聴いたのは30代後半から40代前半だろう。十分に、普通に聴いてた曲だと思う。

 だんだん、高齢者が歌う曲と私が親しんだ曲が変わらなくなってきた。もちろんそれは、私自身が高齢者の側に近づいたことでもあるのですが。

 そんな事を思うと、いつのまにか、日本人の精神も、だいぶ変わっているんじゃないかと思うようにもなった。終戦直後なら、まだ日本人の半数は農民だったろう。10年前、20年前の高齢者たちには、若いころには土と格闘した経験を持つ人も多かったはずだ。

 でも、今の70代、80代の人となると、どのくらいの割合で、農家出身なんだろう。この比率は、これからどんどん下がっていくし、いずれは高齢者のほとんどが都市部出身と言う時代にもなるだろう。

 なんかそれは、失われたものも多いような気がする。

 日本人の心から、故郷とか田舎とか、そういったものが消えていく時代が、いつかはくるのだろうか。そんな時代になると、こんな歌は、もう心に響かなくなるのかなぁ。

 もうすでに、歌に歌われているような、故郷に帰る空色の汽車も無くなったし、帰る田舎のない人も多くなったろう。しかし私には、そんな状態は、どこか人間に不可欠な「根」を失っているようで、怖いと思う。

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