2025年 6月15日

 もう完全に梅雨の気候の真っただ中。普通に週の半分は雨が降り、残りの半分は曇り日。時々、晴れ間が差す事もある。前回の日記では、吹き抜ける風は心地よいと書いたけれど、そろそろ猛烈な湿度と熱気を持った風の気配を感じるようになった。何でも次の週から少し晴れが続き、そこでは最高気温が34度にもなると言う恐ろしい予報を聞く。いやはや、梅雨寒に慣れた体に、いきなりそんな高温を浴びたら、体がついていくのかどうか。やっぱり、今年も強い暑さになるんですかねぇ。

 ただ、これは私の勝手でいいかげんな感覚なんだけれど、案外、夏は暑くなっても秋は早いんじゃないかと思うことがあった。草刈りをしているとセンダン草がけっこう丈を高く伸ばしていて、まだ開花はしていないが黄色いつぼみをつけていた。これはいくらなんでも早すぎる。

 二宮尊徳の話で、夏に食べたナスの味が、既に秋の味になっている事に気づいて、夏が早く終わる事を予感して、土地の人々に急いで救荒作物を作るように勧めた、と言う話を思い出す。まあ私には、そんな鋭い感覚は持ち合わせていないし、センダン草の件だって、ただの勘違いで終わるだろうけれど。

 素人の勘違いならそれでいい。ただ、毎年のように季節の変化による動植物の移ろいを見ながら、「今年は例年とは違うな」と感じ取れるような観察眼は持ち合わせていたいと思っている。

 あるVチューバー(漫画風のキャラクターを主人公にして、自分自身は顔や本名を名乗らずに活動するネット上の配信者・芸能人)が、昭和の歌謡曲を選曲して歌番組をするという企画をした。その選曲があまりにも昭和歌謡そのもので、とても現代の若者が選んでいるとは思えず、実際の年齢は50代なんだろう、なんてからかう声もあったと言う話も聞いた。顔も実年齢も隠して活動している存在なので、公表している年齢と実年齢が違うことは普通にあるかもしれない。

 ただ、ミュージシャンであれば、自分よりもひと世代、ふた世代旧い音楽にも興味を持ったり、そこで得た知識を使って、昔の曲を現代風にリバイバルしたりすることは普通にあるので、ミュージシャンが旧い世代の音楽に対して深い知識を持っている事は、ぜんぜん不思議じゃない。

 それに、これはインターネットが普及してから、動画配信サービスなどで音楽を親しむ層が増えた影響で、ミュージシャンでなくても、普通の若者が昔の音楽に触れて、それを好きになると言う現象は当たり前になってきたと感じている。ユーチューブのような動画配信のサイトで音楽を聴いてみたら、「こんな曲も聴いてみたら」とお勧めされる。そこから芋づる式に、多種多様な音楽を聴き比べていく。

 音楽情報の発信がテレビやラジオしかなかった時代は、流行曲は盛んに流れるが、ちょっと時代遅れとされた音楽は、まるでかからなくなる。つまり、それらに触れる機会すら無くなってしまう。

 今はそんなことはない。聴こうと思えば、どの時代のどの国の音楽を聴こうと選択は自由だし、どの時代のどの国の音楽でも、平等に人々に触れ合う機会を待っている。もはや、インターネットの中には「流行」というものは無いのかもしれない。いつの時代の、どこの国の音楽家は判らないが、なんか私はこの曲が好きだ、という人の気持ちが、そのまま結果に表れる時代になった。

 日本の歌謡曲にも、そんなものがあるみたいね。数年前、何の理由かは分からないけれど、この曲がけっこう流行ったらしい。

「真夜中のドア〜stay with me」/ 松原みき

 なんでこの曲が、世界の人々の琴線に触れたのかは分からない。その後、この曲と同時代の日本の「シティポップ」と言われている歌謡曲が、軒並み聴かれると言う流れにもつながった。

 何か・・・理由はあるんだろうな。何十年も前の、どこかの異国で流れた曲が、何かのきっかけで、まったくそれまで接点のない人々に「再発見」されるような理由が。

 繰り返しになるけれど、そう考えるとネットの中には「流行」という感覚が希薄になって来る。それが今の音楽だろうが、10年前の音楽だろうが、半世紀前の音楽だろうが、どれが新しいとか古いとか関係なく、「私はこれが好き」という率直な感覚で等しく愛される。

 この傾向が続くと、「流行おくれ」と、一昔前の音楽を馬鹿にする感覚も無くなっていくだろう。そして、何が最新の流行で、何が流行おくれかも、どうでもよくなってくる。

 ここでは歌謡曲だけの話になっているけれど、もしかしたら、これからの人々の感覚に、今までとは違う時間感覚を生み出していくんじゃないかなぁと思った。

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