少しずつ暑さも増してきているが、吹き抜けていく風は、まだ心地よい。とはいえ、草刈り作業でもすれば大汗をかくことになるのだが。麦畑は収穫の時期を迎え、昔だったら収穫後に水を入れて田植えとなるのだけど、今は麦と米の二毛作をするところはほとんどないので、どこの田んぼも田植えは終えている所ばかりだ。
気が付けば、麦以外にも収穫の時期を迎えている作物は多い。ジャガイモはとっくに新ジャガができているし、新玉ねぎも採れている。5月までは花の季節だったけれど、初夏にもなれば実りの季節に入っている。グミは赤い実をつけ、桑の実も今が最盛期だ。食べるには不向きだけど、山桜の枝には大量のサクランボが成っていた。
6月と言うのは、行楽シーズンとしては、少し中だるみの時期になるらしい。5月は連休もあるし薫風の爽やかな行楽日和の印象があるし、7月は夏休みが始まる。その間の6月は、梅雨もあるし、ちょっとどこかに出かけようと言う気持ちにはなりにくいみたいだ。休日もないしね。
まあそうは言っても、日曜日の午後3時にもなれば、行楽地から東京に帰る車の列で、中央自動車道が渋滞するのはいつもの事だけど。なんだかんだ言っても、休日に遊びに行く人は必ずいる。土日なのに車の列ができない・・・なんて事は、また疫病でも流行らないと起きないだろう。
ああでも、ある漫画の影響か、7月に災害が起きると言う話が出回っているみたいね。何でも、その漫画を描いた人は、東日本大震災も予見した人らしいけれど。それだけの実績のある人の発した情報だったら、信じる人も出て来るだろうし、半信半疑でも、じゃあ好き好んでその時期に旅行に行くのは控えようと言う気持ちは働く。海外の旅行者の中には、7月には日本に行くのは恐ろしいと思って、旅行先から日本を候補から外す人もいるそうな。
さて、話がそこまで大きくなってくると、そういった漫画に対して「人騒がせで迷惑な」と思う人も多く出て来るだろう。ただ私としては、実際に予測が的中しようと外れようと、こういった話にも価値を認める所がある。1999年にこの世の終わりが来るかのような予言が流行ったけれど、人騒がせではあったけれど、功も罪もあったのではなかろうか。
実際の所、20世紀の後半は、「この世の終わり」を想像しやすい状況が揃っていた。世界中に配備された核兵器は、人類を何度でも全滅させるに十分な量が生産され、いつでも使える準備が出来ていた。環境問題の悪化も深刻で、人口増加に対して食料やエネルギーが足りなくなって、人類が行き詰まる未来が容易に想定できた。
そんな時代、人類に対して、「まあ何とかなるだろう」という楽観論ではなく、やがて破滅の時期が来る、という悲観論の方が、人類を正しい方向に軌道修正をするためには必要だったし、「功」の影響も与えていたのではないか。
そんなことを考えると、何月に災害が起こる、といった情報も、災難を想定した演習くらいに考えてもいいのではないか。だいたい、そんな予言が無くたって、日本の各地には、今後数十年以内に巨大な地震が起きると予想されている所がいくつもある。予言書があろうとなかろうと、予言が当たろうと外れようと、災害は来るときには必ず来るものだ。
話を地震に絞れば、今一度、地震が起きても心配しなくてもいい世の中の形を考えてもいい。巨大な地震が起きても、建物は壊れず、上下水道や電気といった社会基盤は損なわれず、何事も無かったように平穏無事な世の中とは、どういうものだろうか。そして、それに現実を近づけるには、どんな手段が考えられるか。
能登を中心とした、北陸で発生した大地震の際、私が一番驚いたのは、地震の影響で液状化現象が起きて、多くの家が傾いたりしていた映像だった。地震の脅威もさることながら、こういった「地震が起きたら問題が起きそうな土地」について、情報の周知はなかったのだろうか。
これから時間をかけて、「ここは地震や水害が起きたら住宅に被害が想定される所」という情報をもっと厳重に受け止めて、そういった土地には家を建てないとか、既に家が建っていたり町が出来ている所は、安全な所への移転を計画するとか、すべきだと思うなぁ。
そんな思いもあって、それが例え科学的な根拠のない予言の本でも、人々の心の中に「治にあって乱を忘れず」の気持ちを抱かせるのなら、社会的な役割はあるのだろうと思う。
せっかくだから、6月の今の内から、保存可能な食料品とかを揃えておけばいい。
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