前回の日記では、このところ雨も多くて肌寒い日々が続いているけれど、いずれ暑さも押し寄せて来るだろう、なんて事を書いた。実際には雨の多い日は続き、特に週末の金土日はけっこう冷え込み、昼でも20度に達しないほどで、梅雨寒という言葉でも相応しくないほどの寒さだった。私の記憶では、温暖化の傾向か5月なんて、30度に達するような日も普通にある、なかなか暑い月という印象が出来ているのだけど、とうとう肌寒いまま5月は終わった感じ。そしてそのまま梅雨に入るのかもしれない。
自分が参加している田んぼでも、遅まきながら田おこしをして水を入れ、代掻きも始まった。「遅まきながら」とは言え、これでちゃんと収穫できるんだから間違いではない。それに昔の山の田んぼでは米と麦の二毛作も普通だったので、麦の収穫の終わる6月に入ってからの田植えの方が普通だったはずだ。
なんか世間では米の価格の高騰が問題になっているだけに、田んぼと関わると自然とその話題にもなってくる。ただ、これから米の収穫量を拡大させようとしても、すっかり耕作放棄地は増えてしまったし、農業の担い手もいなくなってしまったし、さて、これから打つ手があるのかどうか。
これは時々書いてきた事だけど、今はすっかり、自分の手足を実際に動かして仕事をする人が減ってしまった。代わりに、アタマだけ使う仕事ばかりに人気があるし、そっちの方が世間の評価も高ければ給料も良い。
この傾向が続く以上、問題の解決には至らないだろうし、問題の深刻化も止まらないと思う。そしてこの傾向は、世の中が機能不全になるまで進むだろう。バスの運転手のなり手がいないからバス路線は廃止され、教員になる人がいないから学校での授業が縮小され、医者や看護師になる人がいないから病院がなくなり、車の整備士がいないから車の修理も出来ない。ついには農業のなり手がいないからご飯が食べられなくなる。
ここ数年、世の中で徐々に進行している問題は、そういう事だろう。代わりに人工知能やロボットにやらせればいいと言う話もあるだろうし、外国の労働力に頼れば良いと言う話もあるだろう。でもそれらは結局、この国の人間力の衰退を意味している事には変わらない。
復活する機運はどこからかと想像すると、やはりご飯は食べたいから畑をやろうとか、屋根や壁のある所で暮らしたいから大工仕事もやろうとか、それらの仕事に取り掛からなければ暮らすに暮らせない、という所まで追い込まれた時だと思う。
あと、これもたびたび同じことをここで書いてきたけれど、これから人工知能の普及が更に進み、人工知能の活用が一層進む世の中になると、それに比例して、実際に手足を使って仕事をしてきた人間の重要性も増してくると思っている。
これは、実際に手足を使って仕事をしている人の能力が必要になるという意味だけではない。実際に手足を使って仕事をし続けた人だけがもつ、精神力が重要になると思っているからだ。
思いっきり簡単な例えをしてみる。ここで薪に火を付けて焚火をしよう、と言って、即座に焚火が出来る人がどれだけいるだろうか。いきなり太い薪にマッチやライターで火を付けても燃えるわけではない。始めは着火しやすいものから始め、少しずつ火を大きく育てていき、最後に太い薪を投入していく。言葉にすれば一言だけど、実際にやらしてみると、言葉通りにすぐにできるものではない。中には、何度も懇切丁寧に教えても、まるでできない人もいる。
手足を使って覚える技能というのは、たいがいそんなもので、言葉での説明ならすぐに理解できても、いざ自分の手足を使ってやってみても、教えられたとおりに再現できるようになるまでには、時間と経験が必要になる。焚火だったら、さすがに数をこなせば、たいていの人なら出来るようになるだろうけれど、職人の仕事とか、親方とか棟梁とか呼ばれるような一流の技術者のレベルとなると、何年もの修行が必要なものもあるだろうし、何年もの修行を重ねても、とうとう自分には習得できなかったと涙を流すものもあるだろう。
実際に手足を使ってする仕事には、それ第一級の仕事になればなるほど、言葉や知識や情報を得ても、再現するのに非常な苦労をしたり、苦労のかいなく実力が届かなくなることもある。この、まさに文字通りの意味の「理不尽」が、実際に手足を使う仕事にはついてまわる。
そんな苦労を経た人間こそが、案外、人工知能のような情報を処理する仕事には、不可欠になるような気がしてならない。
なんか今回は気難しい事を書いてしまったけれど、実際に手足を使う仕事といっても、何も仕事だけじゃなくて、趣味でもいい。例えば、釣りだっていいだろう。
このように竿と糸と針と餌といった仕掛けを用意して、魚のいそうな所に投入して魚を釣る。理屈は誰にでも説明できるし理解も出来る。でも、実際に釣れるかどうかは時間と経験を経ないと結果は出ないだろう・
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