2025年 5月18日

 山はすべて緑一色。この時期の緑以外の彩と言えば、ニセアカシヤとかミズキとかホオの木の花みたいに、白い色・・・それも鮮やかな白というよりは、少しくすんだ白がほとんど。桐の花が咲き始めたけれど、これは例外的に紫色だ。

 定期的に雨が降り、それに伴って夏らしい暑さと湿度を感じさせるようになってきた。ついこの間まで、朝晩は小型のストーブが欲しいくらいだったけれど、これからは常に汗を拭くためのタオルを持参するようになる。

 気温や湿度の変化が激しいので、なかなか体がついて行かないのだろう。この土日は体調がすぐれずに寝込むハメになった。そのせいで、この土日に行われた地域のイベントも見て回れなかった。それは「ぐるっとお散歩陶器市」と言うのだけど、藤野にある各地の拠点で登記を展示販売するというもの。陶器以外にも、様々な素材の工芸や、飲食の店も出ているはずだけど、残念ながら体験できず。

 このイベント、藤野でも最大規模のものだけれど、妙に雨と係る事が多い。土日の二日開催だけど、たいてい二日の内のどちらか、もしくは両日が雨になる事が多い。イベントの主催者側も判っていて、当初は5月でももっと6月に近い時期に日時が設定されていたけれど、今では5月半ばにするようになった。少しでも梅雨の影響から離したかったのだろう。しかし、今年は土曜日はあいにくの雨、日曜日は晴天とはいかなかったけれど、なんとか曇天で収まった。

 以前ここの日記で、人工知能の発展について少し書いたことがある。それも、絵画とか音楽とか文学とか、芸術に関わる分野に対して、真っ先にその実力を発揮しつつあると。まあこんな急速な発展を見せつけられたら、誰だって、もう人間がこの分野に何かできる事は無くなってしまうんじゃないか、と思うだろう。その時の日記で、私は、人工知能がなかなか真似できない事は、人間の身体性にあるのではないか、と書いた。

 こんな事を思うことがある。人工知能に絵を描かせてみる。こちらが要望を出せば、だいたいその通りの絵を描いてくれる。でも、そこで生み出される絵は、過去の人間たちが生み出した絵のエッセンスをうまく抽出して再構成したものであって、そこから、今までにない全く新しいものが生まれる可能性は乏しい。人工知能の生み出す絵の源泉が、過去の膨大な作品からの抽出と再構成で行われているのなら当然と言える。

 これが、人間に絵筆と絵の具と紙を渡して絵を描かせるとする。その人の絵の実力が100だったとして、何枚の絵を描かせてみても、なかなか100の絵を描くのは難しい。だいたい、60とか70の絵が出来て、時には20とか30の失敗作も生み出す。

 ところが、人間が手足を動かして、絵具と絵筆で格闘していると、何らかの偶然で、120とか、100を超える絵が出来てしまうことがある。こういう作品が「できてしまった」事に、作者自身が驚いたりするのだが。

 その時に生まれた120の絵が、以後、その作家にとって新しい目標になる。滅多にない経験ではあるが、私自身に120の絵を描かせて成功させた原因はどこにあるのか、それを探求していくにしたがって、いつしか、120の絵も普通に描けるようになっていく。そしてまたいつか、何かの偶然で、ひょっこりと140の絵が「できてしまう」。

 人工知能の生み出す絵が、過去のデータの蓄積からの再構成だとしたら、人間が手足を使って絵を描き続ける時、そこには自分でも予想していなかった可能性が開ける意外性や偶然性がある。そこには、過去の再構成だけではない何かが生まれる要素がある。

 このことを思うたびに、私は、人工知能が発展すればするほど、人間が頭の中で考える事以上に、人間が実際に手足を使って何かをし続ける事の価値の方が、重要になるのではないかと考える。これからますます人工知能が人間の社会に浸透していくにしたがって、実際に手足を使う「身体性」が浮かび上がってくるのではないか、と思う理由の一つだ。

 これとは少し違う話になるが、人工知能が生み出す絵の中で、人間の表情を描き出すとき、そこにはやはり、多くの人間の顔のデータを集めて、それを再構成したような、いかにも平均的な顔になる。でも、本当に魅力的な顔って、決して平均的な顔ではない。

 長い時間をかけて、いろんな経験を踏んだゆえの、その人ならではの顔のしわ、目つきの鋭さ、口元にわずかにみられる笑みを含んだ表情とか。

 人工知能の未来は、今後も発展していくだろう。もしかしたら、私がここで書いたような「身体性」も手に入れた人工知能も出来るかもしれない。

 ただ、人工知能がどんなに発展しようとも、人間が自分自身の地方で、実際に手足を使って現実の中で格闘した末に手に入れる何か・・・その価値は、今後も無くならないのではないか。

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