今回の5月の連休は、割合と天気には恵まれている。最終日の6日は雨になるようだけど、それ以外は晴れが続くようだ。ただ連休が始まる直前の金曜日は、この時期にしては珍しい大雨になった。雷も鳴り響き、川の水もだいぶ濁った。
その翌日の土曜日、雨上がりで空の塵も綺麗に払われたのか、気持ちのいい青空が広がっていたので、道志の道を西へと向かって、富士山周辺の林道を走ってみた。前日の大雨の影響が想像以上に激しかったのか、道路上には落石がゴロゴロと落ちていて、車だと走行が難しかったと思う。まあ、小さなバイクで行ったので何とかなったけれど。
驚いたのは、前日の雨は、富士山や南アルプスや八ヶ岳では雪になったらしく、数日前までは、だいぶ少なくなっていた残雪が一気に広がって新雪をかぶっていた。そういえば、5月初旬だと、もっと標高の低い丹沢でも、雨の時は軽く雪をかぶることがある。
観光地はどこもかしこも賑わっていた。道志川沿いのキャンプ場にも、河原には隙間もないくらいにテントが並んでいる。時々、キャンプブームは終わったと言う話を聞くけれど、一時的な波は過ぎたかもしれないが、それでもかつてよりはキャンプ愛好家の数は拡大したままなんじゃなかろうか。
前回の日記で、旧津久井郡の地域の路線バスが廃止されていく流れについて書いて、この流れに対して、行政もバス会社も、この流れを変えようとする積極的な姿勢を感じられなかったと書いた。まるで座して死を待つかのように、と。
客が少ないからバスを廃止する、バスの運転手が少ないからバスを廃止する。縮退していく流れに対して、抵抗しようとする熱意が感じられない。
物事、なんでもそうだと思うけれど、止める理由、諦める理由を探すのは簡単だ。〇〇が無いから〇〇ができない。この理屈は何にだって付けられる。しかし、この理屈を極限まで推し進めると、食べ物が無いから死ぬしかない、という理屈だって正当化される。
意地悪な極論に聞こえるかもしれない。しかし、人間の歩みというのは、「〇〇が無いから〇〇できない」と言う人間によって切り開かれてきたのではない。「〇〇がしたいから、〇〇をしなければならないから、知恵をしぼり、活路を開く」と言う形をとってきた。
戦後、小さなメーカーがバイクを作ろうとしたときに、燃料のタンクをすぐに用意ができなかったのか、湯たんぽをタンクに使ったと言う話を聞いたことがあるけれど、何もない所から出発する人々は、「〇〇が無いから〇〇できない」なんて泣き言は言わない。〇〇が無い、でも何とかしよう、という発想で切り抜けてきた。
こういった、「〇〇が無い、でも何とかしよう」というバイタリティのある気概と言うのは、何にもない、ひもじい時代の方が培われるのかもしれない。逆に言えば、すぐに「〇〇が無いから〇〇ができない」と諦める理由をすぐに探してしまう精神は、豊かな時代が長く続いた影響だとも言えるかもしれない。
なんかこの傾向は、決してバス会社とか行政だけの問題ではないと思う。日本全体が、同じ病にかかっているのではないかと思っている。バスの運転手がいないからバスの路線は廃止せざるを得ない、と今は騒ぎになっているが、10年後には、医者や看護師がいないから病人の治療ができない、農家のなり手がいないから食料が作れない、という時代を招くかもしれない。いや、10年よりも、もっと早いかもしれないな。実際は、その傾向が顕在化しつつある前兆が、ちらほらと見え始めている状態じゃないのか。
そんな時代が来た時に、何もない状態からの再出発が、この国に出来るかどうか。
「金儲け主義」なんて言うと、下品で軽蔑すべき人間としてみなされる。私も決して好きではない。ただ、豊かな時代に慣れきって、知恵を絞って挑戦するよりも、諦めて切り捨てる事を選ぶ人間が主流になりつつある世の中だと、少々下品であっても、がつがつと欲望に従って、事業を興して、それをさらに発展させて、世の中に活気を漲らせる方向に汗をかく人間の方が、まだ健全なのではないかと思えてくる。
世の中が豊かになってしばらく経つと、自分が何をやりたいのか、道を見失う時期が来るらしい。あまりにも豊かすぎて、満ち足りすぎて、改めて自分が何をしたいのか見つけることが出来ない。
やりたいことをやるために汗をかく事よりも、めんどくさい事をやりたくないから物事を諦める方向に意識が向く。こんな方向性に変化が現れるとしたら、いつ頃からだろう。
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