冬の間にしておく作業の一つに、木の剪定がある。もっとも、私はプロではないので、自分に出来る範囲の事しかしない。あくまでも、素人がやっても、それほど危険性の少ない作業だけだ。
木の成長速度は、想像しているよりも早い。気がついたら、家の屋根よりも枝が高く伸びて、プロに高い金を出して頼まないとならなくなる。家の側で、家よりも高くなるような木がそびえたら、台風が来た時などに木が家に倒れてきて、家を壊しかねない。
最近、その作業で桑の木を伐った。始めに枝を伐り、そこから中程度の太さの枝を伐り、最後には少し大胆に太い枝と、幹の上部も伐った。素人がやるには大胆な作業だったけれど、これでも2~3年も経てば、伐った切り口から枝が伸びてきている。そんな木を見ながら、「けっこうバッサリと伐ったんだけどなぁ」と思い返す。
桑の木は、かなりベタベタする樹液がある。チェーンソーの他に大きめの剪定ハサミも使ったけれど、こういったベタベタする樹液の木を伐った場合は、剪定ハサミに着いた樹液を、その日の内に水で洗い流さなければならない。その日の内であれば、水で問題なく流れ落ちる。ハサミを水で洗って錆が怖ければ、水をよくふき取って、防錆スプレーでも吹きかけておけばいい。
こういった樹液、放置しておくとカチカチに固まってしまい、ハサミの切れ味も悪くなるし、そこまで固くなると洗剤を使っても容易には落ちない。
もっとも、こういった樹液の強力な接着作用は昔から重宝もされていた。カメラに使うレンズは、凸レンズと凹レンズの複数枚の組み合わせで構成されているけれど、中には複数のレンズを張り合わせる必要も出てくる。そんなレンズ同士の張り合わせの接着剤には、バルサムモミの樹液が使われていた。現在は化学合成された接着剤が使われているけれど、今でもレンズ同士の接着剤には「バルサム」という言葉が残っている。
昔から、自然素材の様々な性質のものを見つけては、「これはあれに使える」とか考えていたのだろうな。
バルサムよりも、松脂の方が一般には馴染みは深いかもしれない。松脂もバルサムの一種だけど、利用範囲はこっちの方がずっと広いね。ただ、山の作業をする場合、あまり松脂とは関わりたくないなぁと思う。もちろん、山の作業をする場合は、汚れてもかまわない、それなりの服装で行くけれど、それでも一度べったりと服に松脂がついたら、まあ、ほとんどその汚れは落ちないと思っていい。クリーニング屋のプロだったら落とし方も知っているかもしれないが。
よく、アルコールで落ちる、という話を聞くけれど、いやぁ、衣服に着いた松脂の汚れなんて、少々のアルコールじゃあ落ちないよなぁ。灯油とかシンナーでも使えば別かもしれないけれど、衣服をそんな液体に付けたら、ますます使えなくなってしまう。
前回の日記で、人工知能って、「飽きる」ってことはあるのかな、と言った事を書いた。人工知能に何か物語を作らせても、結局、過去の作品の焼き直しに終わってしまう。人間だったら、そんな焼き直しばかり見せられ続けたら、そろそろ飽きてきて、何か他に面白いものはないかと探し始める。
そう思った時、いや、人間だって、その生み出す作品の大半は、過去の作品の焼き直しではないかとも思った。最近見た動画で笑ったのが、過去の少女漫画界が定型化が極まって思考停止状態になった時期があると言うもの。この動画の23分あたりから解説が始まり、「あー、よくあるパターンね」と笑いが込み上げてきた。
でも、その動画の28分あたりから、そのマンネリを打ち破る才能の話が出てくる。確かに、人間は同じことの繰り返しに「飽きる」生き物かもしれないけれど、多くの人々は、飽きつつも同じ作品を作り続けるものらしい。そして、その状況を打破して、新しいものを生み出すのは、限られた才能の持ち主の仕事かもしれない。
そう考えると、人間だって、人工知能の生み出す作品と、そう変わらないものしか生み出す才能は無いよ、と言えるかもしれない。よほどの天才は別として。
案外、人間の創造力というのも、限定的なのかもしれないな。
そう考えると、やはり人工知能が一般化した世の中で生きていく上で、コンピューターとは違う感性を保ち続ける努力は、今後ますます重要になってくると思った。たぶん、いままで以上に「人間的とはどういうことか」について、自覚的に考える必要が増えてくると思う。
0コメント