2025年 1月19日

 昨年の終わりごろ、この日記で何度か「なかなか秋が終わらない、完全な冬になりきらない」と書いてきたけれど、最近になって改めて「冬らしさ」が判ってきた。たぶん、その冬らしさの一因は、漂白されたような色彩の無さにあるのだと思う。もちろん、日本の、それも関東の冬だと、雪国みたいにすべての景色がモノクロになるはずも無いのだけれど、それでも、紅葉もすべて散り尽くして色彩が乏しくなった風景になって始めて、冬になった実感が湧いてくるのではないかと思った。

 色が無くなると、すべての生命活動が停止して眠りにつき、ただ風が吹き抜け、時間だけが過ぎていく感覚がある。いつ頃からかは忘れたけれど、そんな冬の感覚が、私には好ましいものに感じるようになった。

 たぶん、春や夏や、秋も含めて、命が湧きたつ季節は、自分自身、何かしなければと追い立てられるような気分にさせられる。それはそれで悪い事ではないし、そんな生命力にあふれかえる季節に自分自身も乗じて張り切るのも悪くはない。

 それでも、まるで静止したかのような冬景色に心惹かれるのは、人の心を騒ぎ立てさせない落ち着きがあるからだろう。

 明日は大寒だけど、ここへきて急に暖かくなると天気予報は言っている。少し寒気にも息切れが来たのかもしれない。

 この季節になると、大学などでは卒業論文とか課題の提出に追われる時期なのだろうか。コンピューターが普及して、インターネットの一般化が進むと、そのような課題に際して、適当にネット上の文章を検索して選んで、それをコピーして提出する、という学生が出始めたことが問題になった。

 今は、それが更にすすんで、課題の内容を人工知能に答えさせて、文章も含めて人工知能に作らせるというのが問題になっているのだろう。こういう場合、課題を出した先生たちは、どうやって人工知能を使ったかを見破るのだろう。

 一応、「この文章は人工知能によって作られたか否か」、を人工知能に調べさせる事も出来るそうな。本気で調べようと思えば、ばれるものらしい。

 ただ、もし「先生」という立場であるのなら、わざわざ人工知能の助けを借りずとも、すぐに「このレポートは人工知能を使っているな」と感ずいて欲しいなぁという期待が私にはある。

 例えば、人工知能の力を借りて、何か面白い映画を作らせるとする。たぶん、人工知能はその能力をフルに発揮して、過去の名作と言われる映画から、人々が「面白い」と感じる要素をうまく抽出して、「人を面白がらせる方程式」を完備した作品を作るかもしれない。

 そして、最初の第一作は、人々の興味もあって、実際に人々を面白がらせることに成功するかもしれない。

 でも、じゃあ第二作、第三作も作ってくれ、となると、同じような作品の焼き直ししか生まれてこないだろう。そうならないためには、完全に人工知能に任せないで、所々人間が手を貸して「ここの部分は、いままでとは違う方向に物語を進めて、見る人の意表を突こう」とかアイデアを出していくと思う。

 こういった事は、何もコンピューターが生まれる前から、人間はずっと続けてきた。作品に一つの型が完成したら、同じ型の作品ばかりが量産されて、見る人はそれに飽き始め、そんな状況を打ち壊すかのように、人々の意表を突くような作品が世に出てくる。人間は飽きっぽい生き物なので、同じ作品を見続けるとつぐに退屈して、他の新しいものを必要とする。

 人工知能は、まだこういった「何かに飽きる」という性能は無いだろう。もっとも判らないのは、人工知能も、もしかしたら、2050年頃には、「何かに飽きて」、「何かもっと面白い事は無いかなぁ」と自ら探し始めるかもしれない。コンピューターが人間を超えると言うのは、そういう事を言うのかもしれない。

 コンピューターは、いつかこの世界を「面白い」と思うようになるのだろうか。「おもしろき こともなき世を おもしろく」と詠んだのは高杉晋作だけれど、単調な繰り返しだけの世の中を壊して、面白くしてやろうという気概を感じさせるのは、いかにも幕末の志士らしい。

 今の自分は、世界に対して退屈しているのか、それとも、常に好奇心を持ち続けて、面白い事を探し、面白く生きようとしているのか。

 人工知能が普及して、改めて人間に対して問いかけてくるのは、そういった事柄かもしれない。

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