2025年 1月5日

 年明け。今年は地震も航空機事故もなく、穏やかに始まった。関東は概ね冬晴れが続き、藤野の山里で水源を沢水に頼っている集落なんかは、そろそろ水の量が気になり始める頃だ。例年、成人の日の頃に一度雪が降る事が多いが、今年はどうなんだろう。

 冬の晴れが続いている内に、伐っておきたい木があちこちにある。あるものは家の周りに、あるものは畑の周りに。家の周りの木は、あらかた伐ってきたが、これを放置すると家の劣化が急速に進む。例えば木を伝って蔓草が家に伸びてきて、屋根や壁に絡みつき始める。一度こんな状況が出来てしまうと、除去するのがやっかいだ。それに、家の周りは基本的に、乾燥させた方がいい。その方が家を湿気による腐敗から遠ざけるし、白蟻などの虫の害から避けてくれる。

 畑の近くに生えた木も早めに除去した方がいい。これは単純に、木々が木陰を作ってしまうと畑の作物の日照を阻害するからだが、他にも理由がある。これはもう「近年になって」なんて言葉をつかえなくなるほど、すっかり慢性化して定着してしまったが、鹿やイノシシの獣害を防ぐ目的でも、畑は見晴らしが良いほうがいい。鹿にせよイノシシにせよ、あけっぴろげに解放感溢れる場所の畑というのは、いごこちが悪いらしい。どこか草むらとか木立のような隠れる場所が近くにある畑ほど、狙われるみたいだ。

 結局、獣害対策って、獣が嫌がる空間をどう作っていくかが鍵になるのだろう。

 さすがに世情に疎い私でも、新年早々には、これからどんな年になるだろう、といった未来を考える事はある。そんな私が、これから凄いことになるな、と遅まきながら感じたのは、人工知能の一般化だ。

 望めば期待通りの絵も描いてくれるし音楽も作ってくれる。文章も考えて作ってくれるし、なんなら質問にも答えてくれる。言語の翻訳に関しては、もうほとんど不満を感じえないレベルまで来ている。いずれ同時通訳だってしてくれるだろう。これは、人間一人一人に、そうとう優秀な秘書がついてくれるような世の中になっていくのかもしれない。

 この世に「インターネット」が普及した時も、それが世の中に与えた衝撃は相当なものだったけれど、人工知能の普及は、それに輪をかけて大きな衝撃をもたらすかもしれない。

 ただこれって、それを使う当人が、「何をしたがっているか」が明確にある場合は、とても有効な助力になってくれると思うけれど、当人に、これといって何かしたいことがあるわけでもない場合は、あまり力になってくれないという格差は現れるかもしれない。

 まあ人工知能も、ヒマな人間に対して粘り強く付き合う度量は人間以上にあるので、日々やる事も無く暮らす人に対しても、話し相手にはなってくれるかもしれない。「何か面白いジョークはないかい」と聞けば、いくらでも答えてくれるんじゃなかろうか。

 「私はこういう事をしてみたい」、そういった願望を明確に持っている人間に対しては、知恵も出すし情報も出すし、その願望を実現するのに必要な手順や、整えるべき環境を教えてくれるし、願望の実現にむけて現実的な流れも作ってくれるし、ともに歩んでくれる仲間の紹介や引き合わせもしてくれる。その人の持つ願望が、世の中にとってまさに必要としているモノだったら、従来とは比較にならない早さで願望が実現するかもしれない。

 一見、幸せな世界に見える。実際、幸せな世界だろう。もしかしたら、これからどこかの世界で「この世から苦しみを無くすにはどうしたらいいか」と願う人々が現れて、それを人口知能が助けるような事もあるかもしれない。それに対して、確実にそこに向かう道筋と手順を示して、助力を惜しまない知能の存在がある。

 何か私には、人間の次元が一段上がってしまうかのような、面白さと、畏怖を感じる。まさか、これから数年先には、世の中をよりよくしようとする人々と、それらの人々から「あなた方は気の毒だ。これから私たちがあなた方を幸せにしてあげよう」と言われる人々に二分されるのかな。なんだか、私が後者の立場になりそうで、それが不気味でもあるし、どこか滑稽でもある。

 気を付けないと、人間が自分で物事を考えて、自分の意志で夢を持つことも無くして、ただ人口知能に飼育される家畜になる、という、ありふれたSF小説みたいになりかねない。

 それでも、少しでも以前に比べれば、それはマシな世界なのではないか。そう、期待を込めて思う。

 実際、そうなるかどうかは判らないけれど。

 とりあえずは、私自身、この世界を主体的に「楽しむ意思を持ち、楽しむ願望を持ち続ける」人間であろうとは思う。誰かに「楽しませてもらう」という、依存する立場には、なりたくないものだ。

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