2024年 12月1日

 師走に入った。徐々に冬らしい冷え込みが増してくる。いよいよタイヤも交換した。温暖化とか暖冬傾向とか、あまり冬らしさを感じさせない年が、これから増えて来るかもしれない。とはいえ、先日、韓国で大雪が降ったとか。以前からちょくちょく話には聞いているけれど、温暖化したためにドカ雪が降る、という可能性もあるのかもしれない。

 藤野の山は、まだ紅葉がだいぶ残っているけれど、標高の高い所に行けば、すっかり冬景色になっている。久々にバイクで近隣の林道を走ってみたら、防寒には十分に気を付けて重装備で行ったけれど、予想外に体が冷えた。それに、そういう所は橋の上などは霜が降りていて、うっかりスリップしやしないかと焦った。そんな冬の勢いが、着々と藤野にも近づいている。

 それにしても、私としては不思議に思うのだけど、晩秋の彩に満ちた山の景色と言うのは、考えてみれば、生命が停止する冬を前にした、最後のきらめきの光景とも言える。本来ならば、滅びゆく世界の光景みたいなものなのだから、そこに対して恐れや不吉な印象を持っても不思議ではない。衰え、消えゆく生命に満ちた世界が終わっていく事に、寂しさや悲しみの感情が沸き起こっても不思議ではない。

 そんな、滅びゆく世界の光景なのかもしれないが、私には「美しい」と思える。

 まあこれは、そもそも冬が過ぎれば、また生命に沸き立つ春が来ると言う確信があるから、心穏やかに晩秋の光景を美しいと思えるのだろう。それに、秋の透明な空気は、すべてのものをキラキラと輝かせる。実際、短調な緑一色の夏よりも彩は豊富で、美しいのは確かだ。

 もう一つ、個人的に晩秋の光景を好ましく美しいと思える理由に、春や夏の生命が湧きたつ季節は、私も何かしなくてはと急かされる気持ちになるけれど、晩秋の光景は、仕事が一段落ついて、少し休憩しているような印象がある。夕暮れ時、仕事を終えて、ほっとした気持ちで家路につくような心境に近いかもしれない。

 次に来るのは冬の季節。これはまるで時間が止まったように、静かに生命が眠りについているような時間だ。

 晩秋から冬にかけて、実際には、いろいろと家の周りの手入れをすることがある。木々が葉を落とすと、「あの木はちょっと伸びすぎて、家に枝がかかりそうだ」と思った木から、チェーンソーを使って枝を切ったり、場合によっては幹から切り倒す。そんな家の周りの山の手入れをするのに、晩秋から冬は相応しい・・・というか、それまでの季節は、次から次から生えてくる雑草の、草刈りに追われる方で忙しい。

 じっくりと腰をすえて、山の手入れをしようという気持ちになるのが、晩秋から冬にかけてだ。

 ちなみに、この時期の山の仕事って、それほど時間的に余裕がない。まあ私の場合、家のすぐそばだから、それほど気にはしないけれど、山に分け入って数十分した場所で作業するとしたら、作業を終えるのは3時頃と、けっこう早めに終える。

 そうでもしないと、車を置いている所まで下山するのに、4時までに間に合わない。4時までには車の置いてある所、もしくは、確実に街路灯があって暗くなっても大丈夫な所まで下山できなければならない。なにしろ5時になったらすっかり暗くなっているし、くらい夜の山道を懐中電灯を頼りに下山なんて、危険で仕方がない。

 という事で、4時までには安心できる所まで下山して、仕事は終了、というのが山の作業の基本になる。4時までに下山となると、道具の片づけとかを考えたら、作業の終了は3時になるな。

 こういう感覚は、都市部での仕事しか知らない人には判らないかもしれない。けっこう世の中には、日照の時間に作業時間が規定される仕事もあるんですよ。

 そのぶん、山の仕事は、朝は早めに山に入る事が多い。朝の7時には十分に明るいからね。普通の仕事のように、9時から始業となると、だいぶ損した気分になる。「けっこう明るい時間を無駄にしたな」と。

 上の写真は夕方の4時頃だけど、山影の方はかなり暗くなっている。さすがに夜みたいな真っ暗ではないけれど、あまり、作業を続ける気持ちにはなれない明るさです。

 それに、山の上では陽が当たっていても、すでに麓の方は陽が陰ってますからね。


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