11月3日は晴れやすい日と言われている。前日の2日は、この時期にしては珍しい大雨になったが、思いのほか雨雲の通過する速度が速く、3日は気持ちのいい秋晴れになった。それにしても、前日の雨は秋のしとしと降るような感じではなく、夏のような大雨だったのは、違和感を感じる。
近隣の田んぼも、ほとんど稲刈りは終わっている。これから気候が徐々に亜熱帯のように変化していくと、稲作も変わっていくのかもしれない。そういえば、稲の代表的な品種のコシヒカリは、本来、寒冷な地域に向いたものだと聞いたことがある。この調子で温暖化が進むと、東北や北海道でしかコシヒカリが栽培できなくなるのだろうか。まあそのぶん、温暖な地域に向いた品種も開発されるとは思うけれど。
今回の連休は、土曜日こそ大雨になったけれど、日曜日と月曜日は晴れるようで、これは行楽地には助かった事だろう。どうもこの秋は、連休はいくつかあったけれど、10月の13日と14日以外、雨に祟られる事が多かった。キャンプ場なんかも、せっかくの稼ぎ時に限って雨に降られる、と嘆いていたのではないか。
ホームセンターに行くと、ストーブやらこたつやら、暖房用品がならんでいたけれど、果たして売れるのだろうか。確かに毎年この時期に売り出し始めるけれど、在庫を用意したけれど、思ったほど売れない、という事が、これから増えて行くんじゃないなかな。
気候は明らかに変わっていっている。環境問題にはこれからも配慮が必要になっていくだろう。ただ、ずいぶん昔の事になるが、環境問題について語ってる本を読んだ時に、人間関係の環境問題にも心がけるべきだ、という文章を読んだ記憶がある。
二酸化炭素の排出削減が叫ばれているが、私自身、そしてあなたも、「悪い空気」を周囲にまき散らしていないか。常に口から出てくる言葉は妬みや嫉み、人の悪口、自分の境遇や自分を取り巻く状態への愚痴、そんな自身のストレスを周囲に垂れ流す。そんな人間ばかりになってしまったら、何かを前向きに取り組もうと言う気概すらやせ細ってしまう。
時々、日本にはリーダー論が希薄だと感じる。「リーダー論」なんて言うと、「私には関係ない」と思う人も多いかもしれない。むしろ、「リーダー」なんて、偉そうに人を勝手に指揮して命令したがる煙たい存在、としか考えないかもしれない。
ただ、私が考えるリーダー論は、それとはちょっと違う。実際にリーダーにはならない人であっても、リーダー論は必修すべきだと思っている。この感覚は、武士であれば、殿様のような指導的立場の人はもちろん、最下層の足軽に至るまで、「武士道」は身に付けるべきだ、という意識に近い。
人は、どのような立場であれ、理想的な人格を体現するように努力すべきだ、という主張は、近年はあまり言われないように感じる。
だが、これまでいろんな組織に関わってきて、その組織の参加者のみんなが、明るさや優しさを保ち、理性的にふるまい、理想的な大人として自らを律している所もあれば、組織に属する人々の多くが、顔を合わせれば日頃の不満ばかりを垂れ流す状態になっている所もある。もちろん、何か困難に直面した時に、それを打開できる力をもった組織は前者だろう。
リーダー論の希薄な組織は、その組織に属している人々の大半が、自分が組織全体の状態を俯瞰して捉え、組織全体がどのように動くべきかを考えようとはしない。それは自分の仕事ではないと思っている。
私の考える理想的な組織は、そうではない。実際に指導的な立場にいない人々も、常に全体の事を考えられる人々である事が理想だ。それを、当事者意識と呼ぶべきものだろう。
そのような意識を持っている人ならば、自分のストレスを周囲にまき散らすだけの人間にはなるまい。建設的な批判や改善案の提出ならともかく、たんなる愚痴の垂れ流しなら、組織の環境を悪くすることはあっても良くすることは無いと判っている。
組織や集団の中で、どのような振る舞いをするのが正しい人としての姿なのか。ここでは、「私はリーダーではないから、そのような正しい人としての姿なんて関係ない」という認識は間違っている。「リーダーでなくても」正しい人としての姿を目指し保つことが、人としての必須の条件になってくる。
さて、私の周りは、私の属している組織は、悪い空気をまき散らしているだけの組織なのか、明るさと優しさを保ち、美しい光を放っている組織なのか。
こういう事って、現代の若者たちはどこで学ぶのだろう。大人になるに従って、自然に身につくものなのだろうか。
私は、理想の組織、理想の人格について、仲間内で語り合う経験が必要だと思うし、社会的にもそういう場が必要だとは思うけれど。
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