2024年 10月13日

 秋もさすがに深まってきた。猛烈な暑い夏だったが、そろそろ、夏の気配とも違った雰囲気になってきた。なによりも日照時間が違う。午後も2時頃になると、もうこれだけ陽が傾いたか、と思わせるし、すでに夕方が近い印象になる。何しろ山里は山に囲まれているので、関東平野の真ん中の都市と比べると、陽が陰るのがけっこう早い。よく言われる「つるべ落とし」の秋の陽の早さを実感する季節になってきた。

 篠原の全体を会場にしたイベント「ぐるっとお散歩篠原展」は、その期間全体を晴天で恵まれるという、滅多にない僥倖になっている。このイベント、初日の土曜日に会場設営などの準備の日で、その翌日と翌々日がイベント当日になる。たいてい、この三日間の内のどの日か、もしくはすべての日が雨に降られる事が多いのだけど、三日とも快晴と言うのは極めて珍しい。もっとも、イベントはこの日記を書いている時点で明日もあるのだけど、まあ明日も間違いなく晴れるだろう。

 それにしても、例の疫病で藤野のイベントもかなり減速したが、昨年あたりから、ようやく本調子に戻ってきた。ただその一方で、別の現象が見られるようになってきた。

 藤野が芸術の町として歩んできて、いろんなイベントが次々と開催される町に育ってきたわけだけど、そんな芸術の町を牽引してきた方々に、高齢化の波が及び始めている。

 もちろん、これは何も今に始まった事ではなく、何年も前から現れてきた話なのだけど、イベントを企画したり発展させてきた人たちは、いわば創業者でもあり、活気もあればパワーもある人達なのだけど、じゃあそう言った人たちが高齢で引退したとき、その祭りを継承できるかは、継承者の力量に左右される。それに、そもそも継承者がいるかどうか、とい段階から難しい。

 だいたい、継承者と言うのは、創業者と同等の熱意とパワーを求めるのは無理な存在だ。例外はあるかもしれないが、そのような例外は、滅多にないから例外なのだろう。

 イベントや祭り、それに伴う地域おこしなど、やるからには相当な情熱や労力がいる。場合によっては、そのイベントや祭りを続けていくのに疲弊してしまう所もあるかもしれない。そんな傾向が、これから藤野でもあるのだろうな、と思った。なにしろこれから人口減少社会がはじまるのである。

 そんな世の中になって、「ぐるっとお散歩篠原展」のような地域独自のイベントなどは、どうなっていくのか、と考えた時、私の答えは決まっている。

 なによりもまず、自分がそれをやって、楽しいか、で決めていけば良い。やってて苦しいとか、負担になるとか、そんな気持ちが湧いてくるようなら、まずは「楽しい」と思えるかどうかという基準で、立ち止まって考えるべきだ。

 少し無理があるなあ、と、喜びよりも負担が多いと感じるようになったら、もう一度、「楽しい」と心底から思える所に戻ればいい。

 町おこし等に関しても、私は基本は、そう思っている。喜びとか楽しさとか、快楽主義的な所から出発すれば、人は集まって来るし、それによって活気も生まれて来る。何が何でも、今の規模を維持しなければ、といった「〇〇しなければならない」というような義務感とか強制によって出発した行動は、どうしても先細りになって、実りある発展は望めないと思っていい。

 なので、確かにこれからの高齢化、少子化、人口減少社会に対して不安はあるものの、かといって不安に押しつぶされる気持ちにはならない。あくまでも、現状を打破するにしても、そこに楽しさや喜びがあるかどうかで、方向を決めるべきだろう。なので、そこに悲観はないのである。


 秋の日差しは、不思議な美しさがある。春の光には、これから生命が湧きたつような陽気を感じるが、秋の日差しは、どこか、はかなげに感じる。これから冬に向けて、去り行くものの多さを暗示しているのかもしれない。でも、そんな光を「美しい」と思える感情はどこからきているのか。

 あー、なんだか今回の日記は、私自身、滅びの美学かなんかに毒されたかのような感じになっているようだけど、そんなことはない。

 実際、ぐるっとお散歩篠原展でいえば、相変わらず、新しい参加者が増えて、新しい展開があり、高齢で第一線をしりぞいた人もいる事はいるが、それを補って喜び楽しむ勢いを発揮している。今回のイベントでは、そんな光景が目立った。

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