自分も参加している田んぼで、草取りがあった。稲の間をガラガラと刃の付いた除草機を転がし、それでは取り切れなかった雑草を手で抜いていった。見た感じ、これから一気に稲の成長が加速されるので、そうなると他の雑草は稲の日陰になってしまい、勢いが削がれる。どうやら、二回目の除草は必要なさそうだ、という話になってきた。そうなると、次の田んぼの作業となると、稲穂が出来つつある時期に、稲を鳥に食べられないように、田んぼの上に網を張ることぐらいか。
自分も参加している田んぼは、周囲の他の田んぼの稲に比べて、一番田植えをしたのが遅い。それだけに、他の田んぼと見比べると成長に見劣りがするけれど、これからだろう。一方で、一番早めに田植えをした田んぼの稲には、すでに花をつけた穂が見え始めている。
田んぼの作業の翌日は、篠原ではお祭りの前の「道作り」が行われた。具体的には、地域が総出となって、お祭りの行われる神社とか、神輿がねり歩く道路沿いの草刈りを行う。
この道作りの作業の始めに強調されていたのが、とにかく暑さには気を付けましょう、という事だった。今年の夏はやたらと暑く、連日35度みたいな気温が続くので、下手したら地域の作業で熱中症の患者を出しかねない。地域の繁栄とか健康を願う祭りの準備で体を壊してしまったら、それこそ本末転倒だろう。
実際、この夏は全国各地で、暑さを避けて行事の中止や短縮、簡略化があるそうな。
厳しい暑さだけど、8月に入った頃から、少し山を渡る風にも爽やかさを感じるようになったし、夜の気温にも涼しさを感じるようになった。それまでは、押し殺されるような暑さと、寝苦しさを感じる夜が続いていた。7日には立秋だけれど、少しは秋の気配を感じられるようになると有難いのだけど、どうだろう。私の記憶では、9月の下旬まで情け容赦のない暑さが続いた年もあったが。
それにしても、この日記でも毎回同じことを書いているようになってしまったけれど、この暑さには不安を感じる。やはり気候変動が目に見える形で人々に影響を与え始めたのではないかと思ってしまうし、人々の生活が困難になってしまうような事態に行きついてしまうのではないかという心配がつきまとう。
最近は、暑さに対して「災害的な暑さ」という言葉が使われるようになってきた。言葉通り、確かにこの状態が続くようだと、夏の暑さも単なる季節の特徴ではすまなくなり、台風や大雪同様、人々の生活を破壊し、社会を維持できなくなってしまう「災害」と呼んでも差し支えない段階に至るだろう。梅雨明けの頃は、「不要不急の外出は控えるように」と、まるで疫病の時のような注意喚起がなされた。
でも、それも大げさな表現ではないのかもしれない。疫病で亡くなった人々の数と、暑さで亡くなった人の数に、それほど大きな違いがあるとは思えない。
そうなってくると、暑さ対策に関しても、「政策」としての動きや目標設定が必要になってくるだろう。何しろ「災害」なのだから。
これまで、気象のニュースなどで、どこそこで40度を超える酷暑になったとか報道されるけれど、今まではこういった報道に接する人々も「まあ、大変な事になったなぁ」くらいの気持ちでいたと思う。でも、暑さが「災害」としてとらえられるようになると、猛暑の報道も政治的無能の批判報道に繋がりかねなくなる。
いつ頃になって、そのタイミングが来るかどうかわからないけれど、いかに猛暑を引き起こさない世の中の形を作っていくか、解決すべき優先順位の高い問題として取り上げられるようになると思う。
対処療法としては、水害における、水害に遭いにくい街づくりをしていくように、夏の暑さを溜め込まないような街づくりを考えるようになるかもしれない。以前にもここで書いたけれど、木陰の大切さを考えた町の設計が行われるかもしれないな。
同時に、温室効果ガスの排出抑制にも動きが加わるだろうし、さらに言えば、あまり熱を生み出さない世の中の在り方を考えるようになるかもしれない。
鉄やガラスを作るのに多量の熱を使うが、熱を出さない技術と言うのはありえないのだろうか。
そういった工業に使うエネルギーを、すべて太陽電池由来の電力で賄ったら、とりあえず地球上で過剰に夏を生み出している状態からは遠ざかる。出来るかどうかは判らないけれど。
それよりも、鉄と同様の硬さとか、ガラスと同様の透明さを備えた、自然由来の新素材が作られる可能性もあるんじゃなかろうか。
よく言われるように、ナイロンは高温と高圧が必要になるけれど、蚕が吐き出す絹には、高温も高圧も必要ない。
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