2024年 7月28日

 ヤマユリの季節が過ぎつつあり、ウバユリの季節が始まりつつある。ヤマユリに比べると地味で日陰を好む植物だが、いちおう根は食用になるらしい。

 それにしても、連日のように35度とかそれ以上の気温になるのは恐ろしい。空気そのものに凶暴な熱気を感じるし、なんだかそこらじゅうで焚火でもしているかのような、熱の圧力を実感する。それでも救いがあるとすれば、これだけの暑さと湿気が重なると、午後には雷雨が降ってくれる事だろうか。さすがに一雨降ってくれると、焼けつくような熱気が和らいで、ほっと一息つける。

 あとは、やはり藤野は山里なので、東京都か平野部に比べれば、少しは熱波も控えめなのだろう。夜も、熱帯夜にはならないようだ。ただ、以前にも何度か書いているけれど、私が藤野に越してきた20年ほど前だったら、夜はもっと山の上から涼しい風が降りてきて、今よりも過ごしやすかったし、翌朝も爽やかな涼しさがあった。今は、熱帯夜とまではいかないけれど、少し寝苦しさは感じるし、涼しい風も降りてこない。朝も早い時間帯からムッとするような暑さがやってくる。

 自分が実感するだけでも、この20年で気候は変わったと言っていい。そのことに恐ろしさを感じるし、いいかげん、何か対策を始めなければならないだろうという焦燥感もある。平地の都市部では、今後、夏の暑さでは生活どころか、「生存」ができないという危機が来るのではないか。

 このところ、各地で集中豪雨の被害が出ている。川の堤防が崩れて洪水になったり、土石流が発生したり。たぶんこれから、人々が理想的な暮らしを考える時、どのような都市計画を考えるべきか、という話になってくるに違いない。そこには、これから気候変動で気候が極端化して、今までにない大雨とか、今までにない熱波で、人が暮らすには不向きな地域と、人が暮らすのに向いた地域の選別作業も含まれるだろう。

 今まで、人々が考える理想的な暮らしの場としては、通勤や通学に便利とか、買い物に便利とか、病院が近くにあるとか、その地域自体にお洒落なブランドがあるとか、そういった所に暮らしたいという希望で進められてきた。でもこれからは、気候的に快適な暮らしが出来る所なのか、という要素も、重要になって来るのだと思う。

 これは実現できるか判らないが、住宅地を作る際には、深い森もどこかに作るかしたら良いと思う。神社の鎮守の森のようなものだ。木々はコンクリートやアスファルトの地面と違って熱を溜め込まないし、木々の下には木陰を作る。木陰には適度な湿り気があって、吹きるける風は涼しい。また、木々の葉っぱからは水蒸気が放出されているので、それが気化熱となって辺りの空気を冷やす働きもしている。注射の針を刺す時に、皮膚にアルコールを含んだ綿で消毒すると、そこがヒヤリと涼しくなるように。

 住宅地の敷地面積の中で、森の面積が増える程、その住宅地の夏の過ごしやすさは優れて来る。さて、人々は何割くらいを森にするだろうか。

 なんかこれは、人間の欲望との綱引きになるかもしれない。欲を張れば、森なんかまったく作らずに、すべて住宅地にしてしまった方が良いと考えるだろう。でも、これからは、森の割合が多い住宅地の方が高級で、ブランドとしての価値も高いと認識されるかもしれない。

 もっともこれは私の希望的観測が混じっていて、結局人間は、少しでも利益を上げようと欲を張って、緑地なんてほとんどない住宅地しか作れないのだろうな、とも思う。グーグルマップなんかだと、航空写真も見ることも出来るけれど、それで東京の都市部を見ると、よくもまあここまで、住宅だけで地面を塗り固めたものだと思わせる。そんな中でも、明治神宮の緑地のかたまりを見ると、この中だけでも、周囲よりは2~3度、気温が低いんじゃないかなぁと思わせる。

 正直言って、私は漠然とした不安がのしかかってきてたまらない。これからも夏の暑さは激しさを増し、いずれ暮らせないところまで行ってしまうのではないか。疫病でなるべく家から出ないようにと呼び掛けたように、暑さのために、なるべく家から出ないように呼び掛ける日が、普通に来るかもしれないし、実際、来始めていると思う。

 疫病で観光も祭りも影響を受けたように、暑さに耐えきれなくなって、観光も祭りも控えるような事態に、なりはしないか。個人的には、夏の高校野球なんて、そろそろ中止勧告の対象になるんじゃないかと思っている。

 多くの学者が警告しているように、地球の環境は、いままでとは次元の違う領域に入りつつあるのだろう。もう、気候変動をどう防ぐかという対策よりも、気候変動を前提とした対策をしなければ間に合わない事態になっていると私は思う。

 もちろん、私の杞憂であれば万々歳なのだけど。

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