夏至を過ぎ、関東も梅雨入りしたらしい。確かに雨の多そうな天気になっている。雨が降らない日でも、空気に湿り気を強く感じる。その一方で、蒸し暑さだけでなく、梅雨寒の気候もあって、日によっての温度変化も大きい。今でも朝晩は、少し小型の電気ストーブを使おうかと思う日もある。
やまなみ温泉近くの公園では、白い紫陽花が沢山咲いていた。紫陽花には毒があると知られている(例えばこちら>>)。ただ、ここで引用したサイトでも、あまり紫陽花の毒性については判っていない事も多いらしい事が書いてある。まあ、いきなり紫陽花の葉っぱを食べる人はいないにしても、お洒落に食材を紫陽花の葉っぱの上に乗っけて飾りにしようと考える人はいるかもしれない。紫陽花の葉っぱは大きくて、そういった用途には向いた形状をしているから、うっかりそう考える人もいるかもね。
個人的には最近、紫陽花とは別の毒にやられた。梅雨入り前に草刈りとか薪作業とか終わらせておこうと思い、倒木の木の皮を剥いでいたら、たまたまそこに蜂の巣があったらしく、何匹か蜂が飛び出してきた。慌てて逃げたけど、手の甲に一カ所、刺されてしまった。毒を吸い出したり薬を塗ったりしたけれど、けっこうパンパンに手の甲が腫れてしまった。
まあ、小型の蜂で良かった。スズメバチのような大型の蜂だったら、もっと結果は恐ろしいものだったろう。蜂についての注意点や対策は、ネット上にもたくさん解説が出てる(例えばこれ>>)。
草刈りとか薪作業をしていたら、2~3年に一回は、どうしてもこういう事がある。一応、常に気を付けて防御と予防には努めているんだけどな。
もっともこれは、私自身が災難だったのは間違いないけれど、蜂にとっても災難だったのだろう。蜂の立場にしてみれば、いきなり人間がやってきて、安定した生活の場を破壊されたのだから、攻撃したくもなろうというものだ。
時々、思うことがある。自然に優しく、地球に優しく、環境に配慮した、自然と調和した生き方を志向して、自然の中での暮らしを実践する人も多い事だろう。しかし、自然と調和した暮らしというのは、なんだかんだいっても、自然界の生き物を蹂躙し、殺しまくる場面がどうしたって出てくる。
自然に調和した暮らしとして、石油や電気を使わない暖房手段として、薪ストーブを使うとする。自分自身で山から薪にする丸太を伐り出して、チェーンソーで切り刻みながら、斧で割る作業をしていれば、自分のやっていることが自然界に対する大量破壊、大量殺傷であることに、どうしても直面する。木の中に巣を作っている蟻はコロニーごと失うし、木の中で幼虫として暮らしていたカミキリムシのような昆虫も、丸太が薪にされたらもう助からない。自分に殺生を好まない性質があっても、自然の中で暮らすと言うのは、自分の営みがいかに自然の生き物を殺しているか、直接に目の当たりにする機会が増える。
私は決して、自然の中で暮らす事を否定しているのではない。前述のように、自分の営みが、いかに多くの自然界の生き物を殺しているかを顕在化し、自覚できるような生き方は、むしろ健全だと思っている。薪割りだけに限らず、私たちが農作物を食べ、紙を使い、水道の蛇口から水を当たり前のように使う時、その背後にどれだけの自然界に対する蹂躙が存在するか。
都会で暮らしていたら、自分の暮らしが自然界に対する殺生でなりたっていると、自覚する機会すらあるまい。
過激な表現を使えば、本来、「自然との調和した生き方」、というものは、自然界を破壊しない範囲で、自然界を少し殺す生き方と言える。「持続可能な殺し」なんて言うと、実際に持続可能な生き方を志している人からすると、戸惑う表現かもしれない。
ただ、自分の生き方が、いかに平然と自然界に対する殺生で成り立っていると自覚する機会が得られれば、次は、じゃあどうやってその殺生を、少しでも減らせる生き方が出来るかと知恵を働かせる事もできる。そのことに無知なまま自然保護・自然愛護を唱えるよりも、自覚してからの自然保護・自然愛護の方が、その内容は誠実で充実したものになるに違いない。
ちょっと、難しい話になりすぎた。自分が言いたいのは、自然と仲良くすると言うのは、自然と本気でケンカするという事でもある、という話なんだけど。
自然と大喧嘩して手に入れた薪で、冬に当たる薪ストーブの暖かさは至福でもある。雑草を刈って畑を耕して育てた新ジャガは美味しかろう。自然界を攻撃したり、自然界から攻撃されたり、そんな人間と自然との取っ組み合いの中から、自然界との調和は生まれるのだと思う。
私が、世間で「自然界との調和」を唱える意見を目にする時、それが本物か、空虚な空論かを選別する場合、その基準になるのが、自然界との取っ組み合いの気配を感じられるかだ。
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