2024年 6月9日

 麦の秋も終わりを迎える。一昔前なら、麦を刈った後に水を引いて田起こしをして、稲を育てる所もあったけれど、今はほとんどそういった田んぼは見かけない。とにかく少しでも食料が欲しい時代であれば、二毛作にも真剣に取り組む所も多かったのだと思うけれど。

 衰退の一方だと思われている日本の農業だし、実際に衰退の流れ自体は変わっていないのだろうが、このところ、食品を購入する際に「国産小麦使用」と書かれているものが増えたような気がする。関税や助成金ありきの国産小麦だけど、育ててみようという機運が少しずつ増えているのだろうか。

 なんか私としては、どんなに工業が盛んでも、どんなに商業が盛んでも、農業を失った国には未来がないと思っている。これは単に食料自給率とか、食料の安全保障の問題だけではなく、農業を失った国は、食糧危機の前に、人の心が死んでいくと思っているから。

 美味しいご飯を食べ、北からは林檎が出来て、南からは蜜柑が出来て、海の幸からは季節ごとの旬を楽しむ。そんな喜びを失った国からは、たとどんなに学校で勉強させても、子供たちからは覇気が生まれてこないんじゃないか。

 人工知能が流行り、人間もコンピューターみたいな感性で生きて行けばいいような錯覚を持っている人もいるかもしれないが、私には、動物としての人間の活力が無くなると、感性の方も死んでいくと思っている。

 20世紀には、行き過ぎた物質文明の反省から、もっと精神を大事にすべきだと言う論調が盛んになった。その論調自体は、間違っていないと思う。

 ただ最近、その考え方に注意事項を加えるべきだとも思っている。それは、精神的な向上のためには、物質的な健康な土台が必要である、という事。まあ昔から、健全な精神は健全な肉体に宿る、という言葉があるが、そこまで極端に言い切る必要はないかもしれないが。

 若い時は、精神的な向上を目指すのであれば、物質的な向上も併せて目指さなければならない。どちらかと言えば、精神的な向上を目指す「前に」、物質的な向上を目指すべきだ。

 例えば、小学校の低学年の内から座学や知育にだけ偏るのではなく、畑で泥まみれになるのもよし、家事の手伝いをするもよし、冬のストーブ用に山から薪を背負って降りて来るもよし。こんな事を書くと、なんとも時代錯誤な発想と思われるだろう。

 でも、自分で畑で作った野菜を食べるとか、自分が背負って運んできた薪で暖を採るとか、体を動かして、物質的な仕事をして、物質的な満足を得る、という体験を、幼少期に重ねる事は大切だと思う。そして、そのような体験も無く、座学と知育教育しか行わなかった人間が大人になっても、どこか腹に力の入らない、無気力な人間に育ってしまうのではないか。

 生きている内には様々な困難がやってくる。それを乗り越えるのは、実際に手足を動かして、物質的な「現実」と直接向き合って、「現実」に手を加えて、「現実」を物質的に変えていく力が必要になってくる。そう考えると、子供のころに物質と体で格闘する経験は、やはり大事なんじゃないかと思えてならない。

 あとまあ、今の世の中、やたらと鬱病とか心の病が増えているけれど、その要因も、子供の頃に生活のために体を動かして現実と格闘する、と言う経験が、社会からすっかり減ってしまった事もあるんじゃないかな。

 土門拳とかの、昭和の中頃の写真を見ると、普通に子供たちが赤ちゃんを背負って世話をしていたり、畑を手伝っている光景を見るけれど、現代的な感覚からするとこんな光景は、幼児虐待だとか、子供を不当に労働に駆り立てて教育の機会を奪っているとか、非難の対象になるかもしれない。わたしとて、そんな時代がそのまま復活すればいいとは思っていない。でも、なんか、そういった時代を経た子供たちの方が、今の時代よりも、心は健康に育ったんじゃないか。

 今はますます、携帯電話をポチポチいじくれば、大概の事はできてしまう。そんな経験しか重ねてこなかった子供たちが、いったん現実的な困難に直面した時に、それら困難にたいして、物質的に体当たりで格闘することができるのかどうか。

 仕事の現場でも、すでに弊害が出ているだろう。企画したり提案したりする人はいても、実際にそれを形にすることが出来る人がいない。設計やデザインをしても、それを具体的形にすることが出来ない。「私は企画や提案はしても、それを形にする「物質的な」作業は、誰か他の人がやってくれる」ものと、はなから信じている。

 現場から、60代や70代の、物質と格闘できる経験を持った人がいなくなったら、後はどうなってしまうのだろう。

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