篠原牧馬自治会の取り組みで、道路から少し離れた所に放置されている不法投棄のゴミを、道路の脇にまとめて置いておいた。そのままだと、誰かが道路沿いに勝手にゴミを捨てたのかと誤解を招きかねないので、いずれ自治会によって回収予定である旨を張り紙で説明してある。
相模原市では、5月30日に近い日曜日を選んで、道路沿いのゴミ拾いをやる。何で5月30日かと言うと、「ごみゼロ」の語呂合わせからだ。この時に事前に市に事情を伝えておくと、この日に出たゴミは無料で回収してくれる。それにしても、上の写真に写っている金色の便器とか、ずいぶん悪趣味なゴミを捨てたものだ。
このような行為をする人間は、ごく一部の人間だという事は判っている。多分、100人に一人もいないくらいの割合だろう。ただ、このような道路沿いのゴミ拾いを自治会の行事として行う身になると、いろいろ思う事もある。
例えば、よく何らかの事情で不幸な目に遭った人の事が取り上げられるとする。普通は、まっさきにその人に対して同情の気持ちが沸き上がる。しかし最近は、そのような人の話を聞いても、「確かに気の毒な話だけど、その人、過去にどこかでごみの不法投棄とかしていないか。」
こんな考え方をすると言うのは、私もずいぶん精神が劣化した証拠だろう。
こういう思考に陥るのは、ごみを平然と捨てる人間が、今もどこかで、何食わぬ顔で平然と幸福に暮らしている、と思うと、そんな連中に何らかの天罰でも当たってくれないものかという感情が抑えられないからだろう。そんなこんなで、何か不幸な目に遭った人の話を聞いても、反射的に同情するのではなく、一呼吸置くようになってしまった。あまり良い傾向とは言えない。
それにしても、人間のやる事は、まだまだ不具合が多く、洗練されていない。ゴミの問題はその一例に過ぎないが。
以前、この日記で、夏の緑一面の山々の光景を見て、生命力に最も溢れた季節なのにも関わらず、妙に「死んだ」風景に感じられる、と言った事を書いた。最近、その理由が分かった気がする。
緑一面の山々、そこは生命が最高潮に活動しているはずだが、私にはそれが「静かすぎる」と感じるからだ。まあ、ホトトギスが鳴き、川ではカジカが鳴いたりしていて決して無音ではないのだけれど。木々は、太陽の陽を浴びて、空気中から二酸化炭素を取り込んで、炭素だけを受け取って、残りの酸素は再び空気中に放出する、それによって得た炭素は、木が大きくなるための素材に変わったり、コメやジャガイモの実りへと変わっていく。そういった一連の活動は、すべて無音の内に進行する。
何を当たり前の事を言っているんだと思われかねないが、人間が同じことをやろうと思ったら、おびただしい音と熱と排気と振動と、そして廃棄物を生み出すに違いない。それを植物は常温常圧、無音で廃棄物ゼロで淡々とやってのける。こんな植物の仕事を見ると、人間の仕事はまだまだだと思えてならない。真のハイテクは、まだ自然界にある。
ただ、そうはいっても、人間の仕事も徐々に植物のハイテクに近づいて行きつつあるのも確かだと思う。自動車が内燃機関から電気に移るのもその一つだろうし、最近はやりの人工知能だって、それが発展すれば発展するほど、人間の世界は騒がしくなるよりは、静かになっていくのだろう。
昭和生まれの人間は、科学技術が発展すれば発展するほど、世の中はより賑やかに、というより騒々しくなると思いがちではないだろうか。私自身、そうだったのだけど。
でも、実際の未来というものは、そうではないのかもしれない。ハイテクはどんどん進んで技術は洗練し、騒音も振動もゴミも出さなくなっていて、あたかも夏の山のように静寂が支配するようになっているかもしれない。聞こえつのは、風の音、鳥の声くらいで。
そんな時代が来た時、古い人間は(私の事だ)、妙に静かな世界に対して、物足りなさを感じたり、騒がしかった昔を懐かしんだりするのだろうか。
なんか、茶室のような未来を想像している。人が集い、何か充実した時間を共有するために同じ部屋で茶を飲む。かといって騒がしさはなく、静寂が支配し、茶釜からお湯が沸く音に耳を傾け、会話よりも静寂を味わう。
まだ、そういった未来は訪れてはいないけれど、あと10年もしたら、そんな時代の萌芽がみられるのではないか。いや、私が知らないだけで、すでにどこかで現れているのかな。
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