2024年 4月28日

 シャガの花が咲いている。どちらかと言えば日陰を好む地味な花だけど、山の斜面いっぱいに盛大に咲いている姿を見ると、なかなか壮観だった。山の新緑も淡い色合いはすっかりなくなり、しっかりとした濃い緑になっている。まだ4月だけど、風薫る五月という言葉が似合う季節になってきた。

 連休が始まって、行楽の車の通過も多い。また、一時期、疫病の影響ですっかりイベントの少なくなった藤野だけど、どうやら今年になって本来の状態まで回復したようで、毎週のようにどこかで何かをやっている。

 これでまた元通りか、と思う一方、変な不安もある。なんか、21世紀になってからというもの、不可逆的に時代が元に戻らない出来事が、やたらと続くような印象がある。いや、もしかしたら、何事も起こる事もなく、平安な時代がずっと続くと信じられている時代の方が異常で、常に変化を強いられる時代の方が、本来の世界かもしれないけれど。

 地震と大津波があったり、疫病があったり、疫病が収まったかと思ったら新年早々大地震があって、最近も台湾や四国で大きな地震が続く。世の中の変化には、静穏期と変動期があって、今は変動期に入っているのかもな、と思うことがある。

 そんな時代に対する不安はあるけれども、まあ覚悟はしっかりと決めて、そこに向き合えばいいとも思う。今までとは違う時代に対しては、今までとは違う発想で対処するしかない。

 「今までとは違う発想」なんて、もっともらしい事を書いたけれど、こういった、今までの発想が通じなくなった時の新たな発想って、基本は一つなんじゃないかと思っている。それは、「当たり前のことを、当たり前にする」。

 このことを考える時に、最近は「孫子」を思い出す事が多い。古代中国の兵法書だけど、今は判りやすい現代語訳も沢山出ているから親しみやすくなっている。沢山ありすぎて迷うようなら、これなんかがちょうどいい。

 で、孫子に書かれている事って、ほんとに基本的には、当たり前の事をしろ、しか言っていない。深遠で難解な哲学とか、門外不出の秘伝とか、そんなものは存在しない。「孫子」の中でも、最も広く知られている言葉と言えば、これだろう。

「彼を知り、己を知らば、百戦して危うからず」

 最初の「彼」の所を「敵」と表現する事も多いけれど、原文は「彼」。相手の事を十分に知り、自分の事を十分に知っていれば、何度戦っても危うい結果にはならない。

 相手の戦力、人員、武器、食料、輸送力、資金力、それらが正確に判っていると、どの地域に何人の兵を、何日間展開できるかが数値として割り出せる。同様に、自分の戦力も正確に判っていると、どの地域に何人の兵を、何日間展開できるが数値として割り出せる。

 そうすると、どの場所で戦ったら有利で、どの場所で戦ったら不利かの判断も数値として現れて来る。どの場所で戦ったらいいか、どの場所で戦ったら「いけないか」がはっきりする。自身は、常に相手に対して、有利な状況で臨むように戦略を練らなければならない。

 この言葉で、「百戦して百勝する」とは言わない所がいい。「危うからず」と言っている。おそらく、戦となれば、どうしても有利な条件で戦えず、なんとか撤退するだけでも精いっぱい、という状況もあるのだろう。そんな場合でも、相手の情報と自身の情報を正確に知っていれば、最小限の損害で抑えながら、悠々と撤退することも出来るのではないか。「危うからず」という表現には、そのような意味も込められていると思う。

 まあ、この例にあげた一文だけでも、「当たり前」の事しか言っていない。しかし、そんな当たり前の事を、孫子が口を酸っぱくして強調している所が大事だと考える。

 おそらく、孫子が現れた時代、そんな「当たり前」の事を「当たり前」にしていない国が、あまりに多かったのだろう。

 これを現代に当てはめると、こうなるのかなぁ。

「経営者として仕事で成功したければ、現場で何が起こっているか、ちゃんと把握していなさい」

 当たり前の事を、当たり前にするのは、案外、難しい。しかし時代の変わり目には、改めて、当たり前の事を当たり前にしなさい、という考えに、輝きが取り戻される時期になるのだと思う。

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