2024年 3月24日

 彼岸のあったこの週は、案外と寒い日が続いた。さすがに真冬に戻るほどの迫力はないけれど、毎朝、氷点下に下がって水が氷るくらいの冷え込みはあった。咲き始めていた桜が、一気に開花を進めるかと思ってたけれど、ここでちょっと足踏みをした感じ。

 こういった寒の戻りできまって犠牲になるのがハクモクレンだ。この時期、白い花を、大きなつぼみの状態から開き始めるが、急な霜にあたって、たちまち茶色く萎れてしまう事が多い。ハクモクレンがつぼみから開花を経て散る瞬間まで、寒さにやられる事もなく茶色く萎れる事もなく終わるなんてことは、なかなかない。

 車のタイヤを変えるのも、いかに暖冬傾向が続いているとはいえ、私は4月半ばまで待つ。桜が散って土筆が生える頃に積雪なんてことだって、決して珍しくない。

 冬が一時的に戻ったせいか、このところ、強風が吹き荒れる日も多かった。山を揺するような風が吹き抜け、竹林は海の大波のようにうねり、道路には枯れ葉や小枝が散乱していた。

 こんな春先の強風が吹き荒れる日は、いつも、特別な感慨になる。

 2011年の3月11日に、例の大地震が起きたその日から、福島の原発で電源が喪失して、冷却が困難になる心配が報じられた。

 その翌日からは、冷却のためにホウ酸と海水を入れた。飛行機で空中から水を撒いた事もある。しかし事態は悪化を続け、ついには爆発事故まで起こす。その頃は、関東各地のモニタリングポストの線量の数値を常に確認するのが日常になっていた。

 やがて藤野でも計画停電が始まり、ガソリンスタンドからガソリンが無くなった。確か、11日から一週間も経っていない時の事だったと思う。福島の原発から、特大の放射能の雲が、じりじりと福島県周辺を伺い、やがて関東南部へと広がる気配を見せた。こういった状況は、関東各地の線量計のリアルタイムの情報で、まさに「かたずを飲む」ような気持ちで見ていた。

 この時、季節外れの西高東低の冬型の気圧配置になり、強烈な北西からの風が吹き抜けた。たぶん、この時、関東に降り落ちる予定だった放射性物質の、かなりの割合が太平洋上へと吹き飛ばされていたと思う。

 それから間もなく、とりあえず壊れた原子炉ではあっても、ひたすら水を注ぎこむ状態には持っていき、破局が拡大する事態からは遠ざかった。

 それでも、かなり危機的な事態だったに違いない。当時の首相は管さんだったが、最悪、東日本を失う可能性も考えていたらしい。

 私は今、こうして、拙いブログを書いている。しかし、あの時、北風が吹かなったら、私は今こうして藤野で暮らしているだろうか。最悪、原発が更に酷い事故を起こして、広範囲に大量の放射性物質をばらまいていたら、帰宅困難な地域は遥かに広がっていたはずだし、場合によっては遷都もあっただろう。体を壊して早死にする人も多く出たに違いない。

 春先の強い風の日は、今の現実も、ほんのきまぐれな偶然による、不確かな僥倖の上に成り立っているのではないか、と思う。今わたしがここにいるのも、はかない偶然に過ぎないのではないか。

 寂寥感も無常感もある。その一方で、とにかく、偶然のおかげかもしれないが、命だけは助けて頂いたのだとも思う。それだけに、日々、大切に、力強く生きて行かなければならないとも。

 この、すべてが不確かで儚い無常感と、貴重な機会を与えられて、より積極的に力強く生きて行かねばならないという肯定感が、不思議と同居するのが、この早春の風の吹く日なのです。

 こういう感覚って、私だけだろうか。私だけってことはあるまいと思うけれど、多数派ではないのかな。

 なんか今回は、妙に仰々しい文章になった。偉そうなことを書いてはいるが、果たして自分が、あの瞬間を経て、より意味のある生を生きているかと言われれば、これはかなり疑わしい。

 それでも、早春に吹く強風に接する時は、どこか厳粛な気持ちになる。この感覚は、大事にしていきたいと思う。

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