2024年 3月17日

 牧馬の山は未だ冬景色だが、そんな枯れ木の森の中に、ちらちらと黄色い小さな花を見かける。名前は判らないけれど、早咲きの梅とかロウバイとか人工的に庭に育てられている木ではなく、山の中に自然に生えている木では、早春に最初に咲く花だ。クロモジかアブラチャンか、似てはいるけれど違う。たぶん、クスノキの仲間には違いないが。

 この花が咲き始めると、北風が吹き抜けるような寒い日があっても、春の進行に勢いが付いてくる。これから毎日の様に、山の景色を見るたびに、ああ、あの木も芽吹きだした、あの花も咲き始めた、と目まぐるしく展開していく。見ていて気ぜわしくなるくらいだ。

 春分の日は20日。どうやら天気予報では、その日は雨になるらしい。なのでこの日曜日にお彼岸の墓参りに出かけた。考えることは皆同じらしく、藤野の山の中の小さなお寺の墓地には、多くの人々がお参りに来ていた。

 ちょっと意外だったのが、私が墓の掃除をしたり敷地のっ草むしりをしている隣では、墓参りに来ている人が盛大に除草剤を撒いていた。まあ確かにその方が楽には違いないし、除草剤を撒いている人もやや高齢の方だったので、極力、きつい労働は避けたいと言う気持ちも判る。

 でも、なんかなぁ、私には違和感があるな。

 このところ、この日記で心の病について書いたけれど、そういう方向に私の気持ちが向いている理由の一つに、心がバラバラになっていく組織と、心がまとまっていく組織の差について考える機会が多いことがある。心の病とまではいかないものの、壊れていく組織というものは、どこか、人の心を粗末に扱っているものだ。

 それに、人の心を粗末に扱う気風というものは伝染する性質がある。経営のトップがそういった傾向の人だと、その人自身と似た傾向の、心を粗末にする人間を呼び寄せて来る。結果、組織の中には心を粗末に扱う人間の行為が幅を利かせるようになる。

 そうなると、決して人の心を粗末に扱わない人間でも、そんな組織の中にいると、どんどんその人の心は粗末に扱われ、仕事のやる気も起きなくなってしまい、その人自身も他人に対して心を粗末に扱う人間になっていく。

 これは、なかなか絶望的な現象だと思った。というのも、最近、そんな組織の成り行きを見る機会があったから。

 人の心を粗末に扱う人間というのは、必ずしも心の病気ではない。ただ、行きつく先は、統合失調症の症例と近い道筋をたどって、病的な深みへとはまっていくようだ。

 人は(もちろん自分は)、自分の心が「まとも」なのかどうか、時々、なるべく客観的な視点を持って自省する機会を持つべきだ。多くの人々は、「自分はまともに決まっている」と自認しているかもしれない。

 しかし、あなたの属している組織が崩壊の一途をたどっているとしたら、それも、あなたが指揮をする立場の組織が崩壊しつつあるとしたら、そこにはなんらかの病的な要因があるに違いない。

 組織、なんて言うと大げさに聞こえるかもしれないけれど、家族がバラバラになるような家庭だって、そこには病的な何かがあるはずだ。

 逆に、こう尋ねるとする。「あなたは、バラバラになりかけた組織を、再び束ねる事が出来ますか」と。この問いに対して「できる」と言う人は、それも何度かそういった作業を実践して実際に人々の心をまとめる作業に成功した実体験を持っている人は、何が人の心を病ませて、何が人の心を回復させるかを、よく知っている人といえるのだろう。

 そういった、人の心を扱うプロのような素質を持った人なんて、100人に一人もいるかどうか。しかし、これからの未来を考えた時、せめて100人に一人はいて欲しいとは思う。

 この世の中、「自分はまとも」と思っている人は多い。ほとんどの人はそうだと思う。しかし、そんな人でも、まともでなくなりつつある状態を察知して、そこから立て直せるだけの手腕をもった人となると、ごくわずかだろう。

 ということは、「自分はまとも」と思っている人も、なんで自分が「まとも」なのか、どういう状況下のおかげで「まとも」なのか、どういう要因が働いて「まとも」なのか、説明できる人間ではない。またそういう人は、何らかのきっかけで「まとも」でなくなった際に、自分で自分を回復させることが出来ない。

 人の心について、学問的な知恵をつけるべきではないか、と私が思うようになっているのは、そういう理由があるからだ。

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