先週は、妙に暖かい日があった。地域によっては夏日に近づく気温にもなったらしい。それからまた一転して、寒さの戻りがあった。この寒さは3月始め頃まで続くらしい。まあ、早春らしいと言えばその通りだけど、ちょっと極端だ。寒いだけに、雨が降ると雪にもなる。牧馬は、ちょうど雨と雪の境界あたりをうろうろしているらしい。牧馬よりも、もうちょっと標高が高いと、道路にも積もるほどの積雪になっているのだが。
そのせいか、この日曜日は中央道で通行止めもあったようだ。こういった雨と雪の差が、ちょっとした標高や気温で変わる時は、案外、確実に大雪になる時よりも車の事故が多い。雨だから大丈夫だろうと車を走らせていたら、思いもかけず大雪の地帯に足を踏み入れてしまい、身動きが取れなくなることがある。
藤野は、そういう現象が多いと感じる。地域としては小さいが、駅前は雨でも、1キロも走るとみぞれになり、更に1キロも走ると雪になり、さらに1キロも走ると道路に雪が積もり始めてスタッドレスでないと走れなくなり、更に1キロ走って山の峠道にさしかかると、スタッドレスでも四輪駆動でないと太刀打ちできない道になったりする。
道自体、登ったり降りたりして標高がクルクル変わるし、山の地形によっては妙に雪が溜まりやすい地域もある。知らない車は、そんな落とし穴に落ちる。
前々回の日記で、統合失調症について少し書いた。あの文章を書いていて、「これは、チベット死者の書、に似てるな」と思った。チベット死者の書は、死者に語り掛ける経典だけど、人が死ぬと、その死者の魂は、どのような環境に立たされ、どのような道筋を経て解脱へと向かえばいいかを説明する。死後49日間、死者に向かって助言を続ける。
だれだって死ぬのは初めての経験だ。実際に死後の世界が存在するのか、そもそも魂というものが存在するのか、輪廻というものが存在するのかも私には判断できないが、仮にそういうものが存在した場合、いきなり予備知識も無い状態で死後の世界に放り込まれるよりは、ガイドブックが存在した方が当人は混乱しなくてもすむ。
チベット死者の書が実際に有効かは死なないと判らないけれど、事前に、統合失調症になると、どのような世界が自分の周囲に展開し、幻聴や幻覚が現れるかを知っておくのは、科学的に無益ではない。人が精神的に追い込まれた時に、どのようにして正気を失っていくのかを事前に知っておくと、いざ自分がその立場に立った時、もしくは自分の知人がその立場に立った時、予備知識が無い時よりもずっと混乱せずに事態に向き合える余裕が出来る。
まあ、こんな事を書くと、自分自身の精神状態に自信のある人ほど、「私はそんな狂気に落ち込まない」と笑って軽くみるのだろうな。
しかし、車の運転をして事故を起こさない人というのは、「私は運転が上手いから事故なって起こすわけがない」と自認している人ではない。「ちょっとしたきっかけで、私も車の事故の加害者か被害者になる可能性は常にある」と、事故を想定している人こそが、結果的には事故からは遠い。
それに、「私は事故は起こさない」と自認している人も、じゃあ高性能のスポーツカーに乗せてサーキットに連れてきて、性能限界ギリギリで走らせるようにしたら、いつかは事故を起こす。「そんな無茶な理屈があるか」と思うかもしれない。しかし、そう言う人は、世の中の仕組みがそうなっている事に気付いているのだろうか。
例えば、子供の頃、足し算と引き算を習う。この程度なら、大概の人は普通に乗り越えられるだろう。しかし、掛け算と割り算、代数、行列、微積分、テンソルと進むに従って、限界を迎えてそれ以上進めなくなる人が現れて来る。
学業で優秀な成績を修めた人が、更に優秀な学校へと進学するために努力を重ね、優秀な大学を出た人間は優秀な企業に入るために努力を重ね、企業の中でも更に優秀であるように求められる。この、より優秀に、より優秀にという階段は、登れる人には良いかもしれないが、登れることが途中からできなくて脱落したり、諦めたり、病気になる人がいる事を前提にしている。
端的に言えば、この世の中の仕組みそのものが、人間を狂気に追い込む狂人製造装置という側面を持っている。
そんな狂気の中で正気を保つためには、人はどうあるべきか。
地球は精神科医のいない精神病院と言う言葉は、ずいぶん昔からあるが、そろそろ、この問題に向き合う必要が出てくるのではないかと私は思っている。
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