土曜日に夕方にかけて降った雨は、途中から雪に変わった。長く続く雪ではなく、通り雨のような「通り雪」で終わった。地表には、ケーキに粉砂糖を振りまいた程度の雪が残った。もちろん、こんな雪は簡単に消えてしまうが、油断できない側面もある。道路でも日当たりの悪い所では、しつこく雪が凍って残る。地元の人間なら、「ああ、あのあたりはいつも残るよね」と判っていて心の準備も出来て注意もするのだが、何も知らない人が軽快に車を走らせていると、いきなり凍結路が現れて肝を冷やすことになる。
それにしても、年々、雪の量は少なくなっているように感じる。かつては、12月中にも1~2回は雪が降り、1月には2~30センチは積もる雪が1~2回はある、という感じだった。能登の地震で苦しんでいる被災者の事を思うと、「雪が少なくて寂しい」なんて口に出すのも憚れるが、私にはどこか、雪が降るべき季節には、ちゃんと雪が降っていて欲しいとも思う。
山の自然も、長年に渡って、冬には雪が積もるものとしての環境ができあがっているに違いない。冬に雪が降らなくなると、ある種の害虫が増えるとか、予想外の自然界のバランスの乱れが起こりうるのではないか。
またこれは、まったく根拠のない私の妄想だけど、単に雨が降って流れる沢の水と、雪解けの水とでは、水の成分に微妙な違いがあるのではないか。
昨年あたりから、特に私の心には、冬の光景が美しいものとして目に映るようになった。その理由はいくつかあると思うけれど、思いつくままに考えれば、すべての生命活動を停止させ、眠らせてしまうような厳しさに、荘厳な美しさを感じる事もあれば、動きを止め、静かに沈黙するような光景に厳粛さを感じるというのもある。また以前にも書いたように、景色に色彩の鮮やかさが失われていくに従い、光の美しさが表に現れて来ると言う側面もある。
また、そのような沈黙を続けつつも、じっと春を待つ景色に、救いのような、祈りのような感情も湧いているのかもしれない。ただ、そういったいろいろな理由を数え上げてみて、これが一番の理由かな、と思うものが有る。
「論語」にこんな言葉がある。「年寒くして松柏の凋むに後るるを知る」
季節が冬を迎え、落葉樹が葉を落としてくと、どれが常緑樹が判るようになる。厳しい状態になって、その人の真価や実力が見えるようになる、という意味だ。
厳しい時代なんて、誰だっていやだろう。できる限り、生きにくい世の中よりも生きやすい時代に生まれ合わせたいと思うものだ。また、厳しい時代と言うのは、その時代ならではの犠牲者の悲劇も多い。とても歓迎できる状況ではない。
ただ、そんな状況下にこそ、苦境を打開できるような実力者の力量が必要になって来る。安楽な時代だったら、実力が無くても嘘八百やハッタリや要領の良さだけでのし上がる人間もいるだろうし、そういった人間が幅を利かせる事もあるだろう。
それがいったん、厳しい状況下に置かれると、何もできなくなって迷走するばかりになる。
厳しい時代と言うのは、いいかげんな人間、いいかげんな組織、いいかげんな仕事、いいかげんな生き方が通用しなくなり、一掃されてしまう残酷さがある。が、その残酷さも、見方を替えれば邪悪の一掃と正義の復活とも言える清々しさを含む。
冬の風景を美しく感じる私の心境には、どうやら、そんな意味合いもあるらしい。甘えや依存を許さない厳しさ、「お前ひとりだけの実力で生き抜いて見せろ」と言わんばかりの厳しさ。これには「生き残れないものは消えろ」という残酷さも含まれている。
そこに美を見出す私は残酷な人間なのかもしれないが、こういう考え方もできるのではないか。
実力のない人は消えろ、と言われると残酷さしか残らない。しかし、実力のない家族、組織、集落、自治体は消えろ、と考えたらどうだろう。厳しい境遇に耐える家族や組織や集落というものは、そこには必ず暖かい助け合いや、高潔な人格があると思う。
厳しい時代に消されるのは、必ずしも弱いものではないと思う。弱くても、善であるもの、自分自身に対する厳しさと他者に対する思いやりのある所は、生きのこる力を保ち続けるのではないか。
たぶん、厳しい冬を乗り越える力と言うものは、そういうものだと思う。
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