大晦日の朝は雨だった。雨の大晦日なんて、あまり記憶が無い。その前日は近所のスーパーで、「大晦日は雨になって、荒天も予想されるから、早めのお買い物を」と呼び掛けていた。実際は、静かな雨で、乾燥が続いていただけに、少しほっとさせる感じだった。相変わらず、風邪は流行っているらしいし。
昨日まで、ご近所で餅をつく光景が、そこかしこであった。機械を使わずに、実際に臼と杵で餅をつこうとしたら、いろいろと下準備も必要だし、片づけも多い。なので、餅つきをするところは、たいてい、何らかのグループでやっている。私が参加している田んぼの仲間もそうだけど。
大晦日が雨だという意識があったのか、みんな、大掃除とか年明けの準備とか、早め早めにすませたのだろうか。今年の大晦日はどこか例年よりも静かな気がする。
年末になるとよく流れる曲に、これがある。
今は「空色の汽車」も無くなったし、上野駅の雑踏も無くなっただろう。また既に、人口の多くの割合が都市部に住むようになった現在、故郷に帰省するという行動自体、一昔前ほどには、大きなものでは無くなっているかもしれない。かつては「民族大移動」なんて言葉も使われた帰省だったが。
それに、全国あちこちに新幹線が通じたり、飛行機が格安で乗れるような時代になると、「帰ろうと思えばいつでも帰れる」という気持ちが普通になって来る。あまり、帰省も特別なものではなくなってくる。
これは便利な世の中になってということで、有難い事なのだ。それは確かだけど。
歌われている「空色の汽車」は、おそらく夜汽車だろう。夜汽車も、すっかり無くなってしまった。夜汽車で思い出すのはこの曲。
この歌が夜汽車の情景を歌っているかは判らない。ただ、私にはなんとなくそんな気がする。ここでは、故郷に帰るのではなく、故国から旅立つ人を歌っている。
こういった歌に、普通に共感が集まる土台が、かつてはあったという事なのだろう。今、同じような歌が流行るかと思うと、そうはならないだろうなぁと思う。
一昔前、夜汽車とか、さらに大きく言えば鉄道には、どこか人々の悲哀を乗せて走っているような印象がまとわりついていた。夜汽車ともなると、親族の危篤か不幸か、仕事上の緊急事態とか、ざわつく心を押し殺しながら使うようなイメージがある。
そんな、どこか悲哀を感じさせるかつての鉄道だけど、やはりそんなイメージを持ってしまう最大の理由は、鉄道が貧しい時代の産物でもあるからだろうな。少なくとも、人々が当たり前のように自家用車を使う時代よりは、貧しい。勿論、昔から豪華列車に乗り込んで旅行を楽しむ豊かさもあったけれど。
そんなことを考えながら鉄道はこれからどうなるかなぁと思ってたら、こんな動きもあるらしい。
運転士1人でドライバー65人分 トラック運転手不足で「鉄道貨物」復権へ 2024年問題で注目
人手不足がトラックの運転手にまで及び、鉄道貨物に追い風が吹いているらしい。このニュースを見て、ふと思ったのは、「この国は、また貧しくなっているのかな」という事だった。
昭和の時代の「貧しい」とは違う意味の貧しさが、少しずつ、顕在化しているのではなかろうか。お金はあるかもしれない、仕事もあるかもしれない、でも働く人がいないというのは、それも一つの貧しさだろう。貨物の分野で、貧しい時代の技術が再び使われ始めるようになる。これは「豊かさ」の波が、引き潮に転じている事の現われではないか。
この動画の終わりで、「鉄道の弱点は災害に対する弱さ」であると指摘している。その弱さを補うには、鉄道路線の一カ所が災害で寸断されても、他の路線を迂回路として使える「路線網」を確保しておくことだろう。
今は、経営が成り立たない路線はどんどん廃止していく流れになっているが、どこかで、路線網は道路と同様に国が管理して、鉄道会社はその路線網を使わせてもらう、という形にするしかないのかもしれないな。
0コメント