田んぼの仲間と餅つき。新しいもち米は、柔らかくなるのも餅になるのも早い。そして粘りがある。この日は冬らしく寒い日で、屋外の水道が凍り付いて、餅つきの準備に手間取った。ちゃんと凍結防止用の、水抜き装置付きの水道だったんだけどな。
このところ、冷蔵庫に放り込まれたような低温が続く。外にいると、厚着をしていても、じわじわと肌から生命力を削られる感じがする。日本海側では大雪の話も伝わってくる。ただ、やはり暖冬傾向でもあるようで、年末年始は急に暖かくなるのだとか。
とはいえ、この低温で、世界はすっかり冬になった。最後まで粘っていた桑の葉っぱも落ち着くし、もはや秋の名残を探すのも難しい。12月初旬が「冬きたる」となると、12月下旬は「冬が成る」といった感じだろうか。そんな言葉は無いけれど。
ここ数回、この日記で、一年でもっとも陽が弱く、低く、短くなるこの時期に、光が美しく感じるという事を書いた。その理由の一つは「これかな」というものを思いついた。
それは、冬は木々の葉も落とし、風景に色合いが少なくなり、色彩の鮮やかさを見かけなくなったから、余計に光が目立つようになるのではないか。モノクロームの世界ほど明暗を感じさせるように。
外をバイクで走っていると、妙な形の雲を見つけた。後から、富士山に傘雲が現れたと言うニュースを聞いた。という事は、あの雲の下に富士山があると言うことなのだろう。
来年はどんな年になるのかな、と考えて、そろそろ、自分で自分の価値を高める努力をする時期になったんじゃないかな、と思った。世界全体についても、自分自身についても。なのでこれは自戒でもある。
いつのまにか、この世の中では、自分自身には価値は無いと思いこまされるような力が、自動的に働くようになっていたと思う。まあ学生時代に、いい学校に進級していい就職する事こそがいい人生、と、それ以外の選択肢が無いかのような常識で生きてきたら、自然と自分自身には価値を見出せなくなる。価値があるのは自分の周囲の世界を構成する「仕組み」の方で、自分はその仕組みに加わって奉仕する事でしか、自分自身に価値を見出す事が出来なくなる。
でも、ちょっと昔なら、他の価値観も沢山あった。
例えば職人とか。長い時間をかけて、普通の人には簡単には真似できない技術を身に付ける。これはもう、あいつは「できる」人間なのか、「できない」人間なのか、一目瞭然なので、誰が価値を身に付けた人間かすぐに判る。
物作りの世界だけではなく、これから、人間にも、長い時間をかけて身に付けた技術が求められるようになるんじゃないかと思う。
例えば、様々な個性を持った人間を、互いに仲たがいさせることなく協調させ、統率させる才能とか。これだって、生まれ持った才能もあるかもしれないが、長い時間をかけて現場で試行錯誤して荒波にもまれて、ようやく見に着くものだろう。
道具があれば、それを使いこなせるものではない。マニュアルがあれば、それを実践できるというものでもない。楽器があれば演奏できるわけはなく、工具があれば家を作れるわけでもない。そこには、長い時間をかけて身に付けた技術が、どうしても必要になる。
なんで、そんな時代になるのかなぁ、と、私にそんな予感がする理由を一つあげるとしたら、今までは、とりあえず金が沢山あれば、大概の事は何でもできる、という時代が続いたけれど、これからはそうもいかないだろうな、と思っているから。
人もモノもカネも、限られた世の中になって来ると、わずかに残った人やモノやカネを、どう上手に使うか、と言う技量が問われてくる。頭も使わざるを得なくなる。上手に使えるプロが必要になってくる。人やモノやカネを、湯水のように使ってどぶに捨ててもかまわない、なんて時代はとうに終わっている。
なんか、実際に長い時間をかけて、実際に自分で手足を使い、実際に人と交わりあって、体にしみ着いた技術でないと、なかなか通用しない世の中になるんじゃなかろうか。
そこには、もう一度、前述したような職人的な価値観が、必要になってくると思います。
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