2023年 12月17日

 いよいよ年の瀬。次の金曜日は冬至になる。前の日記にも書いたけれど、一年でもっとも光が短く、弱く、低いこの頃に、世界が光に満ちているような美しさを感じる。また、北風が吹き荒れない午後の山里は、恐ろしいほど静まり返る。静けさと、穏やかな光に満ちた世界と言うのは、どこか非現実的な気分にさせられるものだ。

 この冬は暖冬という予想だったけれど、ここ数日は小春日和と言う言葉も似つかわしくないほど、妙に生暖かい日が続いたが、すでに寒波が西日本から到着していると言う。またしばらく寒い日々が来るのだろう。

 それでも、20年前とかと比べると、だいぶ暖かくなっているのは事実で、自分の記憶では、12月にもなれば1~2回は雪が降るのが普通で、丹沢の山々には根雪のように雪をかぶらせていた。ここ数年、丹沢の山頂部に、そのような「冠雪」と呼べるような光景を見ることが減った。

 昔を懐かしむと言う意味では、このような現象は寂しくもある。ただ、単に感情だけの問題にとどまらず、雪の減少は実害もある。冬の冠雪は、丹沢の鹿にとって生死にかかわる試練で、この時期に命を失う鹿も多かったらしい。

 しかし、雪が無くなると、生き延びる鹿も増えて、それが増えすぎて山の木々を丸裸にしかねないくらいの食害を招くようになる。

 雪のせいで命を失う鹿は気の毒だと思うけれど、それによって成り立っていた自然界のバランスというものもあるのだろう。

 私の棲む山の近くでは、関東では唯一のギフチョウの繁殖地がある。アゲハ蝶を小さくしたような、春に飛び交う可愛らしい蝶だ。その蝶が餌としている葉っぱを、近年、鹿がどんどん食べてしまって問題になってきたという。そこで、その葉っぱを金網で囲ったりしながら、鹿に食べられないような対策を講じ始めた。

 今年は夏の猛暑のせいか、山の動物たちが人間の暮らす領域に現れては、いろいろと問題を起こす事件が多かった。その時、世間で多く語られる意見の中に、「山の食べ物が減ってしまって、やむなく人里に獣がおりてきているのだ、かわいそうではないか」というのがある。確かに、飢えに苦しむのはかわいそうだろう。

 でもこの場合はどうなんだろう。鹿が冬に雪の為に死なずに済むようになって、数が増えて、その結果、その土地に住んでいる他の動物が絶滅の危機に瀕する。守るべきは鹿なのか、絶滅しかけている蝶なのか。

 それとも、それらを全体的に考えた、バランスを守るべきなのか。

 もし、この最後の意見が正しいとしたら、冬に雪で死ぬ鹿の数も、自然界の摂理として受け入れるしかないということになる。

 野生の動物が飢えて死んだり、人里に降りて来るのを「かわいそう」という気持ちになる人は多いだろう。そして、その心自体は、人間らしい感情でもあり、美しいものだと思う。

 でも野生の動物って、自分たちの事を「かわいそう」とは思っていないだろう。その時の条件や環境によって、増えたり減ったりしながら、その場その場で好きなように餌を食べて、すきなように行動するのだろう。

 そして、そんな動物の好き放題な行動が、他の動物を絶滅においやる可能性も秘めている。最悪、山の生態系を壊してしまう可能性もある。(食害が酷くて山の木々を全て食べ尽くして、山が荒れて少しの雨で山崩れを起こすようになるとか)

 山の自然の変化について考える時、「かわいそう」という同情心は、問題の根本的な解決の力になるかと言えば、ならないだろうと私は思う。人間も含めたあらゆる動物が、どのようなバランスで山で暮らしていくのが、全体的に幸福で持続可能なのか、そういった事を、感情抜きで俯瞰的に考える視点が重要になるのだろう。

 山の獣が増えたのなら、積極的に肉として食べてしまえばいい、という意見がある。それも一つの手だろう。ジビエ料理とか流行っているみたいだし。

 ただ、そういった仕組みを作るには、獣を解体する施設が必要になったり、肉を保管したり流通する仕組みを作ったりと、いろいろとしなければならないことが増えて来る。それは、山の獣を食べる事を「文化」と呼んでいいレベルにまで、その地域で関わる人を増やし、多くの人々にそれぞれの役割を担ってもらうことになる。

 これはなかなか大変な事だと思うけれど、意外と若い世代もこの分野には関心があるみたいで、もしかしたらうまく文化として開花してくれるかもしれない。それまでに、どれくらいの時間がかかるだろうか。

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