週に一回くらいの割合で寒気が流れ込んでくる。北国では雪の便りが聞こえてくる。そんな日は、牧馬でも晩秋と言うより初冬の雰囲気が強くなる。これからまた小春日和になって暖かさが戻るだろうが、どこか、「冬が来たのだな」と感じた。
この年の紅葉は、夏のあまりの暑さのせいか、葉っぱが色付く前に茶色く枯れていたり、白っぽく淡い色合いになってしまっていたりと、いつもの色彩の冴えを感じさせないものだったが、このところの冷え込みに葉っぱが応えてきたのか、少し色に深みが出てきたように思う。とはいえ、丹沢の山頂の方は既に葉を落としきって冬を迎えているし、このあたりの山も、ほどなくそれに続くはずだ。
冬が近づくと、どういうわけか「光」を感じさせる写真が撮りたくなるらしい。だんだんと世界に色彩が乏しくなり、日照時間も少なくなっているから、よけいに光を求めるような心情になるからだろうか。クリスマスの時期が近づくと、あちこちで電飾を競ったイルミネーションのイベントが行われるけれど、個人的にはあまり好きな見世物とは思っていないけれど、冬の中で光を求める人々の気持ちの現われ、と思えば、不思議とそれも美しいものだと感じるようになった。
まあ、宮ケ瀬とか、相模湖で行われるイルミネーションで車の渋滞が発生するのは困るんだけどね。
前回の日記で、「保守」というものに輝きが無くなってきたという話を書いた。そうなると、じゃあ次は「革新」に輝きが増してくるのかと言えば、そうでもないと思っている。
今のままの保守でもジリ貧になるのは間違いないが、かといって何を変革していけばいいのか、民衆全体にまだ確信が持てていない状態だと思う。なので、変革したいが、どう変革していけばいいのか判らず、迷いに悩む時期が暫く続くのではないか。
結局は、子供からお年寄りまで笑顔が絶えないような世の中になってくれればいいという結論になるとは思うけれど、そこまでいくには何から手をつけて行けばいいかという所で、悩みや迷いが続くと思う。
私としては、慌てて答えを出さなくても良いと考えている。ただ、一つ提案するとしたら、時々、人里離れた自然の濃い場所に行って、静かに時間を過ごすのもいいんじゃないかなぁと思う。どうしても、都会の真ん中という場所では、本質的な事を考えるのに不向きな力が働くと私は考えているから。
都会は情報量が多すぎて、やる事が多すぎて、目の前の「やるべきこと」をこなすだけで頭がいっぱいになってしまう。一度、そんな情報量の溢れる場所から身を話した方が、かえって世界を見る目が広がるはずだ。
近くのキャンプ場に薪とかを納品している人から話を聞いたことがある。昨今はキャンプも夏だけではなく、他の季節でも賑わうようになっているが、それでもさすがに客が多いのは11月までだそうな。
今はテントの中にまで薪ストーブを持ち込んでキャンプをする猛者もいるけれど、それはさすがによほどのキャンプの愛好者の話であって、普通の家族連れは真冬には来なくなる。
でも、これは以前にも書いた覚えがあるが、静かな山の中で、あまり生命の息遣いを感じさせない冬枯れの景色の中で、穏やかに焚火の火を眺めながら、じっくりと時間を過ごすと言うのは、どこか自分を見つめ直したり、世界に対する認識を改めたり、ごちゃごちゃになった頭の中を一度整理するのには、最適な儀式のような気がする。
ふと思ったのだけど、戦国時代の末期に茶の湯が流行したのも、当時の人々の心に、そんな力学が働いたのではないか。
都市から離れた自然の中で、茶室の在る庵はそのままテントになり、火をおこし、湯を沸かし、コーヒーなどを飲む光景は、私にはどこか茶の湯と繋がって来る。もちろん、あまり酒を飲んでゲラゲラと笑い騒ぐようなキャンプでは、その雰囲気はまるでなくなるけれど。
羽目を外して大騒ぎに興じるキャンプもあっていいと思う。それを楽しみする人は、大いにそれを楽しめばいい。
ただ私には、キャンプブームの中には、確かに、静かに自分自身とか、世の中の在り方について、静かに向き合って思索を深めるような流れも、あるのではないかと思っている。私には、そんな流れが好ましいものと思えてならない。
0コメント