2023年 11月5日

 今回の日記で掲載している写真は、すべて藤野のものではない。金曜日から日曜日まで、実質三連休となったのだけど、個人的にはいろいろとしなくちゃいけない作業もあったのだが、秋の爽やかな青空を見ると、どうしても我慢できなくなり、近場の林道まで遊びに行った。写真はその時のもの。

 標高300メートル程度の藤野と、1500メートルとでは気候も違うし植物の様子も違う。山の上の方では既に紅葉も終わって落葉が進み、冬の気配が近づいていた。

 今年の紅葉は、夏があまりにも暑すぎたせいか、夏の終わりころには木の葉が枯れてしまうものもあり、あまり冴えた色付きが感じられない。ただ、このような標高の紅葉を見ると、藤野とは違った鮮やかな紅葉があった。やはり、秋に一気に冷え込むような地域の方が、紅葉は美しくなるものらしい。

 これくらいの高所になると、カラマツ林が目立ってくる。針葉樹は杉にしろ桧にしろ、秋に色付きもせず、冬に落葉もしないが、カラマツは黄色く色づいて葉を落とす。もちろん、それでも常緑樹もあるのだが、藤野のような低山の里山と比較すると、冬に緑を一気に無くすのは標高の高い所なのだろう。そう思うと、藤野の冬景色は、まだおだやかで優しさを感じる。

 なにやら全国的に熊の被害やら、イノシシや鹿の被害が騒がれるようになった。どうも今年は気候がおかしかったのか、山の食料が不足気味で、野生の生き物に深刻な影響を与えているらしい。腹をすかせた獣が餌を求めれば、自然、里まで下りて来る。

 人に危害を与えるような獣が里に下りてくれば、駆除の対象にもなってくる。気の毒と思う気持ちもあるが、農作業をしているお年寄りとか、通学途中の子供たちが襲われるかもしれないと思えば、一刻も早く駆除してくれと言う気持ちにもなってくる。

 私自身、始めから山里に生まれて山里で育った人間ではない。そのため、山里に引っ越してきた頃は、できるだけ野生動物を殺すことなく、共生できればいいと考えていた。その考え方自体は、今も変わっていない。

 ただ、個人的に畑をやったり、稲作を仲間と一緒にやったりしているうちに、それまで育ててきた作物が収穫直前にイノシシにやられて全滅するような現象に出くわすと、現金なもので考え方も変わって来る。

 いや、考え方が変わると言うよりも、「別のスイッチが入る」といった方が当たっているかもしれない。それまでは、「できれば殺したくない」という気持ちが、「よし、殺そう」という気持ちにスイッチが入る。

 これは、理屈ではない。イノシシを殺さなければ私が死ぬ、という前提に立たされた時、私の心は、何の躊躇も同情も無く「殺処分しろ」という選択肢を選んだ。これは、私だけがこういう性格なのだろうか。それとも、人間だ誰でも、同じ立場に立たされたら同じ気持ちになるのだろうか。

 これよりはもっと小規模な出来事だが、似たようなことがある。山里に住み始めてしばらくしたころ、天井にネズミがどたどたと走り回ることがあった。ネズミと言っても、都会のドブネズミではなく、山の小さなネズミである。当初は、まあ騒がしさはあるものの、特に実害があるわけではないので放置しておけばいい、という気持ちだった。

 それがある時、家電のコードが齧られ、ゴムの被覆が破れて銅線がむき出しになっているのを見た時、「よし、殺そう」とスイッチが入った。電気のコードの被覆が破られて、そこから漏電事故なんかが起きる未来が予想できたからだが、「殺さなければ私が殺されるかもしれない」という立場に自分が立たされたと悟った瞬間、それまで自分の中にあった、できるだけ殺生はしたくないと言う気持ちが霧消し、気持ちがすっと切り替わった。

 この時の気持ちの切り替わりは、なかなか他人には説明しにくい。理屈ではなく、自分の感情の変化が、速やかに、何の躊躇もなく進んだのだ。これは、実際に同じ体験をしてもらうしか、無いのかなぁ、理解してもらうには。

 重ねて強調するけれど、私は殺生を好む人間ではないと思っている。その一方で、野生動物を殺さなければ私が死ぬ、という立場に立たされれば、躊躇なく「殺せ」という気持ちに切り替わる人間であると言う自覚もある。

 なので、一番いい解決策は、人間の生活を野生の動物に脅かされない境界をしっかりと作る事だと思う。そこでようやく安心できた所から、野生動物との共生をどう組み立てていくかの努力も進められるのだと思う。

 熊やイノシシ、鹿や猿の殺処分には批判も多いが、まずは人を安心させる所から始めないと、前向きな解決には進まないのではないか。

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