2023年 9月24日

 お彼岸を迎える。連日、真夏日を続けた気温も、「彼岸まで」の言葉通り、秋分の日で途切れた。まあ、また暑さのぶりかえしはあると思う。早くも気象庁は、次の冬は暖冬を予想しているし。

 取りあえず、今日の朝は、起床して寝巻のままでは肌寒く感じた。一枚、何かを羽織る必要を感じるくらいには冷え込んだ。この日曜日は爽やかな秋晴れとなり、ようやく、ほっとできる天気になったらしい。

 ただ、その直前まで、入道雲は絶えず湧き上がり、「秋雨」という言葉には似つかわしくない豪雨が、あちこちで降った。連日のように、冠水する道路や、水に浸かって動けなくなった車の映像がニュースから流れた。最後の最後まで、「これは私の知っている夏ではない」という思いを強くさせる夏だった。

 ここ数年、世界の様々な科学者たちが、これからの地球は、これまで経験していない領域の気候変動にさらされると、予告し、警告してきた。私には、そのような警告がついに現実に目の当たりにするようになった夏ではないかと思っている。

 科学者の中には、地球の温暖化について、「沸騰」という言葉を使っていた。確かに、入道雲が次々に湧いて出る光景は、沸騰の状態に似ているかもしれない。これは昨年の動画だけど、いかにも沸騰らしい。

 今年の夏は、この日記でしばしば書いて来たけれど、暑さと気候変動で、これまで住めた所が住めなくなる地域が出てくるのではないかと言う不安がある。それも世界的に。

 私が知っている子供の頃の日本の夏は、「暑いなぁ」と思う時でも32度とか、その程度だった。それが今では普通に35度を超え、地域によっては40度に迫る気温が毎日の様に続く。生命の危険を感じさせる高温に人々の生活はさらされ、毎年のように熱中症でなくなる人の数は増えて行くのだろう。

 熱中症で済むのはまだマシかもしれない。かつては30度を超える程度で真夏の暑さだったのが、今では40度に迫るのが普通になってしまったのが日本だとしたら、世界のどこかには、かつては40度に迫る気温の地域が、今では50度に迫る気温が当たり前になった所もあるかもしれない。これはもう、生命の危険性とか悠長な事は言ってられず、生存が不可能な地域と認定されるかもしれない。温暖化と気候変動は、人々が生活できる領域を、年々、少しずつ狭めていく。

 今まで可能だった暮らしが出来なくなったり、今までは無用だった暮らしの為の工夫が必要になったりするのだろうな。

 前述した文章で、テレビのニュースで頻繁に水没した車の映像を見ると書いたけれど、水没しても壊れない車、なんてものも、これからは売りに出されるかもね。

 日本の文化もね、これから変わっていくと思う。かつてなら、夏の日差しで褐色に焼けた肌というのも、健康美として認知されるところはあったけれど、これからは「なるべく直接の日差しは浴びないように」なんて注意喚起が普通にされるようになるかもしれない。日焼け止めのクリームなんかも、肌荒れを防ぐためというよりは、健康被害を無くすために塗る事を義務化される事態もあるかもしれない(屋外で作業する仕事をする人とか)。夏の暑さは、海や川で遊ぶ楽しいものではなく、人々の健康を脅かすものとして、極力避けるものになるかもしれない。

 冬の寒さなら、以前から「人間の生死にかかわる危険性がある」と認知されてきた。「凍死」という言葉なら、誰でも知っている。でも、これからの未来、夏の「熱死」という言葉も、使う時代が来るのではないか。

 なんか悲観的な文章になってしまったが、それほどまでに、私にとって、今年の夏は異様だった。科学者が警告し続けた通りの、悲観すべき事態に、いよいよ突入したのではないか、と思わざるを得ないのである。まあ、杞憂だったらどんなにいいか。

 ビバルディの有名な弦楽曲に「四季」があるけれど、そこに描かれる夏の情景って、暗いものばかりなんだよね。他の季節には、明るい曲が必ずある。冬でさえ、二楽章の曲は、外は寒くても、家の中では暖かい火を囲んで、家族の団欒を感じさせる優しく明るい曲がある。

 なのに、夏の曲は、ぜんぶ暗い。重苦しく、ただひたすら耐えるだけの夏。時折、嵐が襲ってくる夏。ビバルディの時代だって、川遊びをしたりする楽しみもあったとは思うのだけど。

 ただ、これからの未来、夏と言うものが、ただひたすら耐えるだけの季節になってしまうのは、いやだなぁと言う気持ちがある。夏の喜びというものが、これからも普通にある時代が続いてくれればいいのだけど。

ビバルディ 「夏」

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