相変わらず暑い日々が続く。普通、「晩夏」と呼ばれる季節になれば、夏の暑さも蒸し暑さと言うよりは乾いた爽やかさが出てくるが、今年はそんな気配が無い。梅雨末期の天気みたいに、猛烈な蒸し暑さで雲が湧き、時折、夕立を降らせる。今年の夏くらい、入道雲を見たことはないんじゃなかろうか。
前回の日記で地域の祭りについて書いた。牧馬の祭りはお神輿を格納している小屋の戸を開けて、そのそばで食事会をする程度だけど、となりの篠原では神社での前夜祭もあれば、神輿を担いで篠原じゅうを練り歩くこともする。ただそのせいか、新型肺炎の感染があったらしい。このところ、疫病は収束気味で、スーパーなんかに買い物に行く時もマスクはすっかりしなくなったが、実際にはまだ油断できないらしい。
でもどうなんだろうな。今回の篠原の祭りでは感染者が出たようだけど、このことで来年は中止だとか、この地域で行われる他のイベントは中止だとか言った話は出ていない。人々の雰囲気として、ある程度感染者は出る事は仕方がないという認識になりつつあるのだろうか。
なかなか秋らしくならないが、既にススキは穂を出して、木陰の林の中ではミズヒキの赤い花を見かける。植物は着々と時を勧めているようだ。
福島で事故を起こした原発を冷やしている水を、海に放出すると言う話で騒ぎになっているが、私には、これは日本と言う国の志が低下した現れだと思っている。高度経済成長の頃の日本は、まだ世界のどこもやっていないような事でも挑戦する気概があった。その当時の気概が今の日本にもあれば、世界のどの国も文句がつけられないような、完璧な浄化をして見せて、称賛すら勝ち得ていたかもしれない。
このところ、技術立国の名を名乗れなくなるような事例が多い。家電は日本製は下火になり、電気自動車の開発でも遅れ、国産の旅客機を作ろうという計画も立ち消えになった。探せば、まだ国産の技術が世界的に優位に立っている分野もあるかもしれないが、地盤沈下は認めざるを得ないだろう。
事故を起こした原発の問題処理に覇気がない理由の最たるものは、「あまり大事にしたくない」という気持ちが常にあるからだろう。国が総力を挙げて、大金を注いで、技術もありったけをそそいで、頑張れば頑張るだけ、「原発が事故を起こすと大変な国難になるんだ」という印象がどうしても国民に植え付けることになる。それは、今後、原発に対する国民の風当たりを強くすることになる。再稼働もまともにできなくなる。
そんな気持ちがあるから、事故を起こした原発の処理に対する政府の姿勢も、「みんなが騒ぐようなたいした問題ではありません」という形になる。
そんな姿勢で行われる事故の処理なので、当然、気の抜けたものになる。事故に対して真正面から取り組もうとするよりも、事件を大事にしないように取り繕い、ごまかす事に終始する。この傾向は事故を起こしてから一貫して変わっていない。
私は、事故を起こした当初、現場に大学を作るべきだ、と書いたことがある。そこで、事故を起こした原発の安全な解体作業についての研究開発をして、汚染された土壌や水の浄化についての研究開発もし、それらの作業が安全に出来るような機械や設備や備品の研究開発もできるような、総合的な研究機関を作るべきだと。そこには様々な団体や企業からの協力も仰いで、資金も気前よく注げばいい。
そんなに金を使ったら財政が傾くと思う人もいるはずだけど、こういう現場で培った技術や実績や人材は、その後、本物の価値のある技術になって開花すると思う。そうなれば、その技術を持って世界に打って出る事も可能だろう。
本気を出さない所には、本物の価値のある技術は生まれない。世界が驚嘆し、世界が求めるような技術は生まれない。事故を起こした原発を冷やしている水を海に流しても、そこから新しい技術は生まれないし、世界は驚嘆しない。金の使い方としては、下手な部類になるだろう。
志の無いところからは、何も新しいものは生まれない。ただ既存の利権にしがみつくだけで、地盤沈下をしていくだけだ。
日本がここまで劣化したのは、間違って豊かになってしまったのが最大の理由だろう。もう一度、志をもった人々が出てくるようになりには、一度、地盤沈下を極めて貧しくなる必要があるのかもしれない。
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