私が参加している田んぼの仲間の田植え。今年は梅雨前に台風が通過したりして、沢の水量も豊富なのか、田んぼに水を引くのも順調に終わった。また梅雨まっさかりのはずだけど、この土日は天気がもって、落ち着いて和気あいあいと田植えができた。麦の収穫も良好で、なかなかの豊作になった。
今のところすべて上手くいっているけれど、こうなると逆に不安になるな。これから秋まで、天候不順とか風水害とか、イノシシなどの害獣の被害も無いとは言えない。まあ心配ばかりしても仕方がないが。
この田んぼの仲間。上の写真を見ての通り、小さな子供たちが多い。この子供たちが大きくなって、この田んぼを支える若い力になってくれれば万々歳だけど、野球とかサッカーに夢中になる年頃になると、もう田んぼには来てくれなくなるからな(笑)。
それでも、泥の田んぼの中に足を入れ、苗を一つ一つ田んぼに植えていく記憶が、心のどこかに残ってくれるのなら、それはそれで大事な経験になってくれるに違いない。お米が、スーパーで袋で買ってくるだけの存在として認識するよりも、ずっと貴重な認識になってくれると思う。
このところ、ちょくちょくと人工知能が人から仕事を奪っていくといった事を書いて来た。これは実際に進行している問題で、安易な楽観は許されないのだと思う。これからの未来、この問題で職を失う人だって、確実に増えて行くだろう。
この人工知能の問題は、すでに定型業務だけでなく、芸術のような創造的な分野でも実力を発揮している。いずれ、人間にできる仕事はすべて人工知能でも出来るような世の中になっていくだろう。
これだと、人間の仕事をすべて奪われる悲惨な未来しか思い浮かばないが、考えて欲しいのは、その「悲惨な未来」というのは、人間がする「仕事」というものが、人間の生活(更に言えば生存)を支える手段だからである。これが、「別に仕事をしなくても、生活は出来るように保証するよ」という世の中なら、そこまで悲惨な感じにはならない。
これは私が楽観的に過ぎるのかもしれないが、未来はいずれ、そういう方向に行くんじゃないかなぁと思っているんですがね。
「べつに働かなくては生きていけないと言う世の中ではない。仕事をする気が無くても生活は保障する。それで暇すぎて退屈なら、趣味に時間を費やすのもいい。」
そんな世界。
そういう時代になると、「才能」も、今とは違う考え方で使われるようになる。現代は、才能のある人間が世の中から重宝され、その才能を求められ、その結果、富と名声と称賛を得る、という形になっている。自分に才能があると自認する人は、自分の才能を使って富と名声と称賛を得ようと張り切るのが普通だろう。
それが、あらゆる仕事が機械がやってくれるような世の中になって、別に人間の才能んなんて必要ではなくなるような世の中では、才能は対価を得る手段ではなく、純粋に人々の心を潤すために存在するようになるのではないか。
別に働かなくても衣食住は保証されている。でも自分には、この才能があると思っている。その才能に磨きをかけ、人々がその才能に関心を持つようになる。そんな時、その「才能」は、「この才能を使わせてほしければ金を出せ」という考え方にはならない世の中になっている。
求められれば誰でも使ってもらえるような、旅人ののどを潤す街道沿いの泉みたいな存在になるのではないか。「どうぞご自由に使ってくれ」と。
才能は、対価を求めるための手段から、人々の心を潤す泉に変わっていく。
やはり楽観的に過ぎる考え方だろうか。
これからしばらく、人工知能が人から仕事を奪い、人々がやる気をなくすような世の中になるかもしれない。その一方で、別に金にはならないけれど、自分の才能をこつこつと磨きをかけて行く人も出てくるはずだ。
そういった人々は、やはり利他的な精神で才能を使う事に、生きがいを感じるようになると思うのだけど。
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