2023年 5月21日

 エゴの花が咲いている。下向きに咲く可憐な花だ。前から同じ事を度々書いているけれど、この時期の木の花は白いものが多い。というか、白以外が思いつかない。ヤマボウシもミズキもウノハナもホオもアオダモも。七夕頃になって咲き始めるネムの木で、ようやく色付きの花が見られるが。

 そのせいもあってか、この時期の山の姿って、どこまでいってもどこまでいっても、緑一色で、どこか単調な印象がある。自然の生命力に関しては、もっとも盛んな時期なんだけど。

 この土日に、藤野全体を使ったイベントの陶器市があった。疫病明けとあってか、なかなかの人出があったみたいだ。この陶器市は毎年のように雨に祟られるけれど、今年は初日の土曜日こそ朝方に霧雨程度の雨が残ったが、それ以降は天気がもった。陶器市にしては天気に恵まれた方だと思う。

 もう一つ、今回の陶器市で印象深かったのが、陶器の展示販売だけでなく、飲食のお店の出店が目立ったこと。まあこれは悪い事ではないと思う。というか、この流れはもっと加速するんじゃないかなぁ。

 まあ、これから書くことは、あまり大きな声では言えないことだけど。

 これは私の個人的な気持ちだけど、もう、モノはあまり増やしたくないや、という感情がある。目の前にどんなに魅力的な陶器が並んでも、家に持って帰っても置くところに困ってしまう。なのでイベントに行っても、モノを買うよりも飲食を楽しむくらいの方が気が楽だ。

 もちろん、こんな発言は、この陶器市を成功させるために、長い時間をかけて準備にいそしんできた陶芸家達には、大変に不快にさせる申し訳ない意見には違いない。下手をしたら、「もうモノは十分にあるから、陶器なんて作る必要はないと言うのか」と叱責を食らうだろう。それに、これは単に私が陶器に対して思い入れが少ないだけであって、陶器を好む人、食卓に並べる食事によって器も選ぶような方には、陶器はいくらあっても欲しいと思うかもしれない。そういう人の為に、陶器市は今後も存続するのだと思う。

 私が器を集める事に対して負のイメージを持ってしまう最大の理由は、空き家の整理をするときの、器の多さにうんざりする記憶が多いからだ。まあ山里の空き家には多い話で、一度、残置物を片付けて綺麗にしようと思い立って、最初に直面するのが物の多さ、それも食器の多さだ。普通に使う食器も多ければ、祝いの席でもらう引き出物の器も多いし、ビールなどをケースで買った際に景品でついてくる安っぽいコップとか、まあゴロゴロと出てくる出てくる。結局、すべて廃棄することになるわけだが。

 昔の人は、なんでこうも溜め込んだのかねぇ、とやりきれない思いをしながら片付けるのだけど、コップ一つでも大事にしなければならないと確保し続けた人々には、その時代ならではの気質があるのだろう。モノが不足していた時代を経験してきた人にとっては、当然の方針だったはずだ。

 でももう、さすがに今は、なんでもかんでも「もったいない」と手放さない時代ではないよね。今は、極限までモノを減らして生活する「ミニマリスト」という生き方があるそうだけど、そこまで極端でなくても、モノは少なめにして、すっきりと身軽な生活の方が、気楽でいいや、という人の方が増えてきているのではないか。

 これは陶器だけではないだろう。あまりモノを増やさず、モノが少ない空間にかえって潤いを感じ、モノの管理に時間と労力を費やす手間を減らす生き方は、これからの普通になっていくと思っている。そんな時代ならではの、モノづくりって、どういう形になるのか、興味があるし、自分自身ではまだ答えが見つからない。

 まあ、モノはあくまでも、楽しい体験を積むための道具に過ぎない、という認識が強くなって、モノを溜め込むよりも、積極的に使い倒して、豊かな思い出を作っていく事に関心の方向が向いていくのは間違いないだろうけれど。

 モノ作りにはなかなか厳しい時代になるのかな。でも、そういう時代にあったモノづくりの在り方の解を見つけた人や企業が、未来を見出していくのは確かなんだろう。

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