この週は、しっかりとした雨が降り続いた。冬枯れの沢の水も、すっかり水量が多くなって音を響かせている。山は少しずつ色付き始めいるが、今目立っているのは、茶色い木立の中のコブシや桜だろう。
牧馬も含まれる篠原の自治会の総会があった。今回の総会で、地域の防災活動を地元の人間が担う「自主防災組織」のありようを変更する話が出た。相模原市の指導で、それぞれの自治会に設置を求められた自主防災組織だけど、市の指導のままにとりあえず形を作ってみたが、これまでの活動の経験から、あまり組織のありようが実態に即していないと言う気づきもあった。今回は、組織の在り方を、組織の形自体は簡素化し、より実践的な組織にしていこうという方向で考えている。
一度、えらい台風を経験したからねえ。あの時は、藤野は確かに「被災地」といっていい状態だった。
もう一つ、地域の交通として使われている「乗合タクシー」が、牧馬にも来ることになったのが総会での話題。ただ牧馬では使えるのは14時半までという条件が付く。
この乗合タクシー、路線バスが走っている所は使えないという制限がある。なので、牧馬から藤野駅まで行こうと思ったら、路線バスのバス停のある所で乗り換えが必要になる。このわずらわしさが無くなったら利用ももっと増えるのは確実なんだけどな。
最近聞いた話で興味深かったのがこれ。
空き家の問題は、全国的なものだけど、こういう動きも始まったのかなぁと思った。
空き家にもいろんな形がある。別荘のように、空き家ではないが年に数回しか使わないという家もあれば、今は使わないが、いつかは使うかもしれないと言う気持ちで持ち続けている家もある。住んではいなくても値上がりを期待した投資目的で持っている家もあるだろう。
自分の棲んでいる所で多いのは、確かに今は人は住んでいないけれど、そこで育った兄弟たちは案外近くに住んでいて、それぞれの荷物置場として使われていたり、春の山菜採りの時とかタケノコ掘りの時に使うような家。こういう家は、利用されずに放置されている家とは違って、ちゃんと管理されているものだ。
その一方で、その家を巣立った子供たちが、まったく見向きもせずに放置され、崩れ落ちていく家も確かにある。いったん崩壊の過程に入ると、修理するにしても解体して更地にするにしてもお金がかかるので、そんな金はかけてられないと、ますます放置されて崩壊が進む。こういう家を見ると、無残な気持ちになる。こんな状態にするくらいなら、もっと早い段階で売るなりすればよかったのに、と。
空き家にも税金がかかる世の中になると、少しは人々の考え方も変わるだろうか。家に限らず、資産とは「使われない事は罪である」という考え方に。
あともう一つ、人々の意識で変わってほしい事がある。それは、中古の家も、大切に使われて維持や修繕も重ねられてきたものは、価値がある、というものに。これまでの考え方は、家などというものは、新築当初の状態が一番価値が高く、そこから価値はどんどん低くなり、20年もしたら建物そのものの価値は無になってしまうというのが普通だ。
こういう考え方の場合、少し年数が経った家を、まじめに維持管理する気持ちが薄れてしまう。築年数が経っていても、丁寧に使われ、耐震性や快適性も新しい基準に適合するように改築が重ねられ、現代の新築の家と遜色ない家の場合は、中古でも高く評価されるようになれば、もう少し空き家も大事に管理されて、無残に朽ちるにまさせるままのような事は減ると思う。
さらに言えば、たとえ20世紀の後期に建てられた、ありふれた家であっても、大事に維持されて使われていけば、数十年も経てば、風格ある街並みの一部になるんじゃないかと思う。そんな、時間を重ねたがゆえの価値を、人々が認識するようになったら、家だけでなく、街並みも美しくなっていくのではないか。
家であれ何であれ、少し古びてきたらすぐに無価値と断じて廃棄して新品に取り換えるのではなく、時を重ねたがゆえの美しさに愛着をもって、大事に使い続ける、そんな気風が日本に根付くときが来るのかどうか。
ヨーロッパの街並みなんか、200年前とほとんど変わらない街並みだって普通にあるのだけど、日本の場合、よほどの観光地でもないと、そんな土地はないよね。
今回の日記であげた動画の京都だって、京都らしさはすっかり希薄になっていると思う。
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