先週の雪の後、土日は暖かくなり、月曜日に雨が降ると、その後は冬の寒さが戻った。それがまた土曜日頃から暖かくなり、今日の日曜日は、どうやら春一番が吹いたらしい。朝から生暖かい強風が吹き、時折、天気雨も混じった。ストーブが欲しくないような気温になると、急に気持ちが伸びやかなになる。もちろん、また寒さの戻りはあるのだが。
雪のおかげか、沢にはやや水量が回復した。牧馬のような山里は今でも沢から水を引いている家も多く、冬の水の減少は、けっこう生活に直接響く。
普通の家庭で、沢から水を引いて生活する場合、何も沢から家までじゃぶじゃぶと水を流し込む必要はない。沢から水をホースで導くのだが、水量は小指の先ほどの細さの水でも十分だ。ちょろちょろとしたか細い水に思えるかもしれないけれど、どのみち、引いて来た水はいったん家の側にあるタンクに溜めることになる。タンクに溜まった水を加圧ポンプで家の中に導き、家では蛇口をひねれば普通に水が使える。
先述の、小指の先ほどのか細い水でも、タンクに溜めながら使う事を考えれば、洗濯でも風呂でも困る事は無い。か細い水でも、家の人間が寝ている夜の間も、ひたすらタンクに水をため続けているからね。
問題は、そのか細い水量すら来なくなる場合だ。
私自身は、昨年の冬にその事で悩まされた。沢水があまりにも少なくなると、沢から水を引くホースの取水場に水が来なくなる。ホースの取水場は、たいがい堰になっているのだが、その堰に水がぜんぜん溜まっていないし、堰の所にあるホースの所まで水位が来ない。
私がこの時採った対策は、まず堰自体を入念に観察して、堰に痛みがないかを見る事だった。よく見て見ると、老朽化した堰の所々に亀裂があり、少しずつだがそこから水が漏れている。
昨年の正月休みは、堰の在る所までセメントを運び、漏れている個所を塞ぐ作業で終わったなぁ。水が漏れている所に無理やりセメントを押し込んで塞ぐので、普通のセメントではなく、1分で硬化するような止水セメントを使いました。
こんな作業も一日では上手くいかず、水漏れのある亀裂を塞いで、どうやら水位が上昇し始めたなと安心して家に戻っても、いつまでたっても水は家にやってこない。不思議に思って堰のある現場に行ってみたら、確かに水位は上昇していたけれど、今度は水位の上昇に伴って、それまで見つけられなかった亀裂から水が漏れ始めている。なので、そこもセメントで埋める。
こんな作業を何日も、堰まで何往復もしながら続けました。セメントもだいぶ使ったなぁ。
2月5日の日記の所で、これからは衣食住に関する基本的な事でも、自力でなんとかできてしまうような人が活躍するんじゃないかと書いたけれど、そんな生き方もなかなか大変です。まあ、いったん経験してしまえば、それは確かにその人の力になるのですけどね。
昨年の正月に苦労したおかげで、今回の冬は水の心配はしなくても済んでいる。まあ今年は今年で、電気代とか心配しなくちゃいけなくなるわけだが。
ただ私としては、今の電気代の高騰も、どこか「ほんとかなぁ」という印象がぬぐえない。以前も日記で書いたけれど、人々が本気で太陽電池パネルの利用に向き合い始めれば、案外、馬鹿らしいほど安くなるんじゃないかと思っている。
だいたいこの国は、太陽電池に本気で実力を発揮させるような政策はとってこなかっただろう。既存の利権を守りたいと言う思惑もあるのだろうけれど、その時代の最高の技術を集中して、安価で高性能で廃棄やリサイクルも容易な太陽電池を作るとか、それらを量産して更に安価にしてみせるとか。
経済的にそれほど恵まれない人でも気軽に買えるようになれば、人々の電気に対する考えも変わって来る。まあ政府や電力会社にしてみれば、「変わってほしくない」という気持ちの方が大きいのだろう。
とはいうものの、そろそろこのままでは収まらなくなると思うのだが。
平成の時代は、やたらと「保守」が幅を利かせた時代だった。しかし、私の印象だと、既に「保守」に対する求心力は低下の勢いを増していると感じている。まあ統一教会とべったりだったとかの悪印象もあるけれど、最大の理由は、人口減少とか物価高とか、「保守」のままだと滅んでしまうとか生活できなくなるとか、実際的な脅威が見えてきたからだろう。
考えてみれば、「保守」に求心力があるのは、国民全体が豊かで安定している時だけである。
0コメント