年明け・・・と、もっともらしく書いているけれど、この日記を書いているのは旧年中(12月30日)。1月1日に投稿できない事情がありまして。だから、現時点では年明けが穏やかなものになっているかは不明です。大晦日に大地震が無いとも限らないし。
実のところ、個人的には2022年は、いろいろとあった。私個人には、それほど問題は無かったのだけど、知人や、知人の知人くらいの範囲で、心の痛む出来事が重なった。どうか、2023年は、穏やかな年であってほしいと切に願う。
ただ、2022年がいろいろと大変だった理由に、世間全体が共通して抱えている問題が反映しているものもあった。物価高で仕事が上手くいかなくなったり、仕事自体は上手くいっているのだけど、労働力不足、特に若者の労働力不足に悩んだり。若者の雇用ができなくて、やむなく高齢者を雇う所もあった。
なんだか、世界が徐々に老化しているみたいで、先行きに不安なものを感じる。人口が減っていく世の中の形そのものに変更も改善も無く、日本と言う国は縮小再生産を続けている。この悪循環が停止して、好転に向かう兆しはない。
・・・年明け早々、不景気な文章になっちゃったなぁ。
衰退の波は、都市よりも山里では先行して始まっている。山里の家には、子供が家を継がない家屋が増えて、高齢者の住人が世を去ると、家は住む人も無く朽ちていく。2022年では、牧馬でも一軒、家が解体された。
このように全てが衰退に向かう中で、そこに住んでいる人々は何か新しい事に挑戦するよりは、防戦一方になってくる。
ただ最近思うのだけど、このような衰退に向かう流れの中だからこそ、「自分が心底からやりたいと願っているものがあるか」が大事になってくるようだ。防戦しかできない状態で、「やりたいこと」なんて出来るはずが無いと思われるかもしれない。
こんな想像をしてみる。友達も知り合いも、老衰や病気で旅立っていく。もしくは寝込んだままの暮らしを余儀なくされる。自分の知っている世界、自分が慣れ親しんだ世界が、少しずつ衰退して消えて行こうとしている。こんな流れの中にいると、多くの人々は、自分自身もその流れの雰囲気に飲まれて、無気力になったり嘆き悲しんだり、絶望しながら残りの時間を過ごすだけになるかもしれない。
でもそんな時、「私は、死の間際まで、やりたいことがある」と言える人は、最後の最後まで気持ちの張りを維持し続けるだろう。
夢とか希望とか野心とか、決して若者だけのものではない。世界が上昇し、高揚している時だけのものではない。もしかしたら、「死」を意識した時にこそ、夢や希望や野心の価値が輝きだすのではないか。なんか私には、これからの数十年か、高齢者の夢とか、生きる張り合いとか、ライフワークの様なものが、非常に重要になっていくような気がする。
前回の日記で、少しだけ職人の価値について書いた。職人の中には、「一生が修行」と言うような高い目標と向上心を持った人も多いが、こういった職人も、世間が衰退と寂しさの波に流されそうになる時に、毅然として力強さを発揮すると思う。
さて、新年早々、不景気な事を書いているけれど、この新しい年がどうなるかという予想に関しては、実はけっこう前向きだ。前回の日記でも書いたけれど、世の中が「まとも」な方向に向かう端緒の年になるような予感がある。
世の中を成り立たせている真に大切なものは何か、そういった根源的に大切なものが改めて浮かび上がり、それを大切にしていこうと心を通わせあう人々の群れが、少しずつ広まっていくのではないか。
ここ数十年、すっかりお金に毒されたのか、お金を左から右、右から左へと動かすだけで世の中も動かせるかのような思想がまかり通っていたからねぇ。そんな世の中に対する反省もあるだろう。
常緑樹と落葉樹の差が現れるのは、冬になってからだ、と論語に出てくる。
人を平然と粗末に扱ってもかまわないと考える世の中の暴走が力を失って、やはり人を大切にした世の中でないと、世の中そのものが成り立たないと言う考えが戻って来るんじゃないか。こういう真にまともな考えが改めて真面目に取り上げられるようになるのは、やはり生命の気配がひっそりと静かになった、冬こそがふさわしい。
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