2022年 12月4日

 今年の秋は全体的に暖かいままで終わった。普通、秋ともなれば、底冷えのする日々が度々やって来るものなのだけど、そんな冬の訪れを感じさせる冷え込みがほとんど無かった。そのせいもあるのだろう、あちこちで、干し柿が上手くいかないという声を聞く。干し柿は、厳しく乾いた寒風にさらされて出来ていくものだが、秋が暖かいままだと、柿の実が干されるよりも、カビが生えて腐ってしまう。これも温暖化のせいだろうか。いずれこの地域も、干し柿作りには不向きな土地になっていくのかもしれない。もしくは、干し柿を作るのに冷蔵庫の力を借りるようになるとか。

 そうなると、果たしてそれは土地に根差した文化と言えるのだろうか。

 そんな暖かい秋だったが、12月に入ったとたんに冷え込んできた。山の木々も、落葉樹で葉を付けているのは2割程度といったところ。これが落ち尽くすといよいよ冬景色になっていく。山の道路では、落ち葉を集めてトラックに載せる人々が目に付くようになった。あらゆる物価が上がっているが、腐葉土を作るための材料はタダで木から落ちて来る。

 山の木々も、場所によって葉を既に落ち尽くしている所もあれば、けっこう多くの葉を残している所もある。どうも、日当たりのいい山の斜面は、葉が遅くまで残るようだ。そのぶん、山の北斜面は早めに冬景色になっていく。

 最近、川上橋にあったバス停の小屋が無くなった。上の写真はグーグルマップのもの。無くなる前に自分も写真でも撮っておけばよかった。

 すでにこの場所にバスが通らなくなって久しい。画像を見ての通り、バス停として利用するような状態ではない。ただ、かつてここにバスが通り、雨が降る日などはこの小屋で雨をしのぎながらバスを待っていたのだと言う、証拠のような化石のような遺物である。

 このバス停には、いろいろと思い出がある。川上の集落には父方の祖父母が住んでいて、今でも本家がある。子供の頃は夏休みや休日にはよく遊びに行っていた。

 藤野に家族で遊びに行く時は、夕方に東京で父と合流し、そこから中央本線で藤野に向かう事が多かった。高尾辺りまでは夕暮れの景色だったが、藤野の駅に付く頃には夜になっている。

 その藤野の駅から、篠原行きのバスに乗る。バスの床は木製で、油をたっぷりと染み込ませたような黒光りで匂いがしていた。私が子供の頃の篠原までのバスの道は、相模湖を渡る日連の橋も、目もくらむような高さの赤沢の橋も、車のすれ違いも出来ないような細い橋で、まるで秘境に行くような感じがしたものだった。

 川上の停留所でバスを降り、夜の道を祖父宅へと家族と歩いた。橋の下から聞こえてくるせせらぎの音が、急に山深い所に来たのだと実感させた。祖父母の家ではまだ養蚕をやっていて、夜寝静まった時になると、蚕を飼っている上の階から、蚕が桑の葉を食む音が、さわさわと聞こえてきたのを覚えている。

 いつしか祖父母も鬼籍となり、藤野駅から篠原まで直通するバスは無くなった。替わりに、途中のやまなみ温泉で乗り換える形になったが、やまなみ温泉から篠原へ至るバスそのものも廃止された。これももう何年も前の話になる。

 バス停の小屋は、既に無用の長物だったわけだけど、個人的には、ああ、本当に何かが無くなったんだ、と妙な実感と感傷があった。あの小屋は、おそらくバス会社が作ったものではあるまい。土地の有志が力と資材を出し合って、作り、維持してきたものだと思う。小屋の消失と一緒に、あの小屋に携わった人々の思いも消えてしまったような気がした。

 かつては大勢の子供たちや大人たちを乗せて、狭い山道をバスが走っていたが、いずれ、その証拠を探す事すら困難になっていくのだろう。下手すれば、バス路線が無くなるどころか、集落そのものが無くなってしまう可能性だってないわけではない。日本全国、そんな場所が沢山あるはずだ。

 いまはどこの家でも車がある。都会は自家用車が無くても暮らしていけるが、山里だとそうはいかない。だれもが当たり前のように車を持つような世の中だと、田舎のバス路線が消えていくのも仕方のない話なのかもしれない。

 ただその一方で、公共交通ならでは役割は、まだあるのではないかとも思っている。

 これは、ちょっと飛躍した考えかもしれないけれど、地方の公共交通は、いっそ無料化してもいいのではないか。それが10年後か20年後か、50年後か100年後かは判らないが。

 交通が、「経済原理」で縛られて運営されている時代が、今後も永久に続くとは、私には思えないのです。義務教育が無料のように(実際には義務教育にもこまごまと金がかかるが)、交通にも無料と言う考え方が生まれる時代が、来ないとも限らない。

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