2022年 10月16日

 自分が参加している田んぼの稲刈りがあった。まずまず、豊作の部類になると思う。台風は多かったけれど、それほど強風にはならなかったし。刈り取った後は、はさ掛けして乾燥させて、脱穀まで待つことになる。それまで、天気が続いてくれればいいのだけど。

 3日と雨の降らない日が続かない傾向は続いている。雨の降らない日でも、青空の見える晴天にはならない事が多く、なんだか、いつもの秋の、抜けるような深い青空が恋しくなる。上の写真の稲刈りでは機械を使っているけれど、この程度の小型の機械ならなんとか使えるが、数日おきに雨が降るので田んぼはけっこうぬかるんでいて(もちろん、稲刈りに備えて水はずいぶん前から田んぼには入れていない)、大型の脱穀機だと機械が田んぼに沈んでしまって動けなくなる。

 今年は、どういうわけか、稲に対して、すずめの被害が少ない。年によって、山の動物たちにも、いろんな変化があるんだろうな。

 山の緑は冬に向かって徐々に枯れて行っている。まだまだ緑が多いけれど、その緑色も、どこかくすんだ色合いで、あちこちに黄色や赤の葉も目立つようになってきた。その一方で、ナラ枯れの被害を受けて既に茶色く枯れた木も目立つ。来年は、もっとナラ枯れの被害が拡大するのだろうかと思うと、気が重くなるな。

 こんな田んぼに参加すると、いろいろと思うことがある。近年、スーパーやらコンビニで食品の買い物をするたびに、「少しずつ小さくなっているなぁ」と実感する。同じ大きさの袋に入っていた菓子パンの大きさが、微妙に小さくなっていたり、弁当や総菜の量が少なくなっていたり。売る方も、いきなり値上げをするよりも、量を減らしたりして、あまり消費者に気づかれないような値上げの仕方を考えているのだろう。

 値上げをする方にも理由があるのは判る。原材料費の高騰とか、もっともな理由がちゃんとあるはずだ。

 でもなぁ、自分で稲作をしたりすると、別に太陽の光とか雨は、値上げとかしないからな。もちろん天候不順や気候変動の心配はあるけれど、だいたい、例年通りの太陽が照り、雨が降る。そして、例年通りの稲が出来る。そこには、年々インフレーションが続いていく物価高とは違う感覚がある。いつも通りに働き、いつも通りの収穫をするという、相場の変動に左右されない現象が。まあ、稲作以外だと、肥料の値段の変動に悩まされることもあるけれど、それも一昔前は、自分で山から落ち葉を回収して堆肥を作り、自分で肥料を作っていた。

 半世紀前と言わず、一昔前程度でも、「物価は年々上がる、給料は上がらない、年々暮らしが厳しくなる」という世界とは、別の世界が普通にあったはずだ。

  たぶん、20世紀は、どんどん物価が上がっても、それに応えるかのように生きる喜びも拡大した時代だったのだろう。それほど物価高が苦にならなかった時代だったのだと思う。でも今は、年を追うごとに暮らしが厳しくなるばかりで、喜びが無い。

 これは、農村と都市の考え方の違いになるのかな。年は常に進化を求める。少し古くなると時代遅れとなって、軽蔑の対象になる。時代遅れの品物は価値が認められなくなる。そして最新の品物が高く取引される。

 その一方で、農村の考え方は、過去何百年と渡って、同じことを繰り返し、同じ結果を生んできた、その安定感にあったのだと思う。

 そこで思うのだけど、このまま物価高ばかりが進むと、どこか、かつての農村的な世界に対する憧憬がうまれやしないか。何も最新の流行なんて望まない、時代遅れの暮らしでも構わない、まあ最低限度とまではいかなくても、そこそこ不便のない生活ができれば十分。そのかわり、毎年安定した暮らしが保証され、年々衣食住が苦しくなるような世界からは離れた暮らしができる環境。

 世界は、なかなかこのような世の中の形を認めたがらない。もうがっちりと資本主義経済に固定され、常にインフレーションが無いと世の中が維持できない状態になっている。そんな中、上記のような農村的な安定した世の中なんて、資本主義の敵に映るだろう。

  ただなぁ、私の予想としては、21世紀は、どこか中世の農村的な安定した社会のシステムを、導入せざるを得ないんじゃないかと思っている。経済が停滞した時の、民衆のセーフティーネットとして、そんな安定した世の中の形が必要になるのではないか。

 いざ、そんな農村的な安定した世の中の住人になると、なんであの時代の人間は、やれ株価だ物価だと、数値の変動に大騒ぎしていたのかと、不思議に思うかもしれない。

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