2022年 7月31日

 7月も終わりになって、安定した夏らしい天気になってきた。梅雨のような雨は影を潜め、このごろは昼間の暑さの反動で、夕方から雷雨になる事が多い。

 気になるのは、やはりナラ枯れの木々が目立つこと。山の所々に、点々とシミのように赤い木々がある。カシナガキクイムシに食べられて枯れたナラの木が、赤茶色に枯れているのだ。今はまだ点々といった感じでも、これから山の広範囲の木々が一斉に枯れる心配だってあるだろう。そうなると山の保水力だって怪しくなり、大雨で簡単に崩れる山になってしまわないか。

 それにしても、心配事の種は次から次へと尽きることが無い。

 8月になると、篠原では「道つくり」といって、祭りの前に道路沿いの草を刈って道を綺麗にする。今年も道つくり自体はやるのだけど、祭りの方は中止が早々に決まっている。理由はもちろん疫病だ。感染の危険性を考えたら、大勢で神輿を担いで集落をめぐるなんて、やはりまだ駄目かな、と考えたのだろう。

 ただ、これが江戸時代とかだったら、疫病が流行っているときこそ、「悪霊退散」とばかりに、いつも以上に真剣に熱意をもって神輿をかついで、村中を練り歩いていたんじゃないかなぁ。まあ、今それをやるべきだとは言いませんが。

 元首相の襲撃事件は、いつの間にか統一教会の問題への追及が中心になってきた。これは私の勝手な、漠然とした印象なのだけど、きっかけは首相の襲撃事件でも、統一教会への追及自体は、ずいぶん前から念入りに準備されていたような感じがする。なんか、簡単にお茶を濁して終わりにはしない雰囲気があるんですね。まあ私の勘なんて当てにならないのは当然なんだけど。

 しいて私がそう思った理由を挙げると、現在行われている統一教会への追及って、地方の都道府県の議会のレベルから、一つ一つ叩いては埃を払っているように見える。中央の国会議員を2~3人、主だった者を犠牲にしてトカゲの尻尾切りをするような、急いで始末をつける感じではない。都道府県や市町村の段階から、どの程度、統一教会が浸透しているかを、だれの目にも見えるように光を当てて国民に知らしめる・・・、そんな印象があるのです。

 大急ぎで幕引きを図るというより、時間はかかっても、のんびりとじっくりと、国民全体に問題を知ってもらおうとしているかのような動き・・・、統一教会側からの反撃もあるだろうけれど、それを見越した上での、広くゆっくりと事を運ぶように見える。なんだか、現首相も、急いで幕引きを図ると言うよりも、のんびりペースで推移を見守る感じに見えるんだよなぁ。

 長い時間をかけて準備して、この問題はここできっちりとカタをつけようという意思が、どこかにあるのではないか・・・、私の考え過ぎかなァ・・・。

 襲撃された元首相を国葬にしようという話もあるけれど、そうなると国葬が終わるまで、統一教会の話題は途切れなくなるな。どうしても元首相襲撃事件と統一教会はセットで語られるから。

 それにしても国葬ですかぁ。この人が関わると、マスクを配ったりとか、税金の無駄遣いには芸術的な冴えを見せる。失笑する人は多くても、感動する人は少なかろう。

 政治に感動を求める事自体、間違っているかもしれないけれど、半世紀前くらいだったら、まだ感動もあったんじゃないかなぁ。例えば、長年の悲願でようやく村に学校ができたとか、峠を越えるトンネルが開通して道路が便利になったとか、水道や電気が使えるようになったという所だって、まだ多くあった事だろう。

 人々の願いが、努力の結果実って、喜びと感動に包まれる。そんな光景も、半世紀前なら普通にあったと思う。でも、いつごろから、政治に対して喜びとか感動が無くなってしまったのかね。20~30年前くらいからかな。これは人によって感じ方が違うと思うけれど。

 昔は日本中が貧しかったから、ちょっとした技術革新や努力で、簡単に感動できたんじゃないか、という意見もあるだろう。でも、幸か不幸か、また日本中が貧しくなってきたじゃないか。これからまた、喜びや感動が増える時代が来るのかな(笑)。

 言っていることが冗談なのか冗談ではないのか、判らなくなってきた。

 これからどうなるだろう。もう一度、日本中が貧しくなって、再び政治に対して喜びや感動を求めるようになるのだろうか。

 再出発とは、そういうものなのかもしれない。

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