連休も終わり、また静かな山里に戻りつつある。とはいえ、個人的な印象だけれど、今年の連休は、行楽の客が大挙して押し寄せるような感じではなかった。キャンプ場もまあまあ混んではいたけれど、熱気を感じる程ではなかったなぁ。その一方で、富士山の本栖湖近くの芝桜祭りでは、恐ろしいほどの行楽客が訪れて、えらい渋滞が起こったとか。
もしかしたら、疫病の影響も少し落ち着いたのを見て、都会からは近場のキャンプ場で休日を過ごすのではなく、もっと遠出して全国的に有名な観光地を目指す状態になったのかな。これでもっと疫病が収束したら、次は海外旅行に行こうと言う人が増えるのかもしれない。
藤野のイベントも、少しずつ復活しつつある。陶器市が今年は規模を縮めながらも開催する予定なのは以前ここでも書いたけど、藤野のイベントって、世間に広く広報されているものばかりではない。むしを藤野のイベントの特殊な所は、知り合いやご近所だけに広報されているような、小規模なイベントが多いところだ。ほとんど身内しか集まらないものまである。
こういった小規模なイベントも、ここ数年自粛気味だったが、ぼつぼつ再開されている。少し、藤野らしさが戻ってきたようだ。
このような小規模なイベントは、観光客がどっと押し寄せて、その土地にお金が落ちて来るような、経済効果を期待するような影響は現れない。それよりも、その地域に住む人たちが久々に直接会って、一緒に食事をしたり話し合ったりする親睦の場になる効果の方が大きい。
経済至上主義の考えからすれば、このような地域の親睦を深めるだけのようなイベントなんて、価値を見出せないかもしれない。でも、例えば災害のような、その地域に困難が襲った時に、柔軟に対応できる底力をつけるには、こういったイベントはとても役に立つ。
まず、その地域の人々が、その地域の人々についてよく知る機会ができる。今あの人は怪我で入院して家にいないとか、新しく引っ越してきた人は大型車の運転ができるとか、電気工事に詳しいとか。このような知識が深まると、いざ災害の場合でも、現場で対応できる手段の幅が違ってくる。
それに、イベントの場で地域の人が土地の野菜を使って料理を振舞っているような経験が深まると、これはそのまま災害時の炊き出しの能力にも反映されてくる。それほど、地域の小規模なイベントと災害対策とは相性が良い。
昔の農村に、大概の事は自分たちで出来てしまう底力があったのは、毎年のように祭りをやっていたからだと思う。
新型肺炎で祭りが出来ない時期が続いたのは、地域社会の活力にとって、けっこう大きな衝撃になったと思う。やはりこういう祭りが無いと、明るく前向きに未来に向かって創造していこうという気持ちになりにくいようだ。
話はちょっと変わるけれど、今、世界的に「脱炭素社会」に向けて舵を切っている。化石燃料を使わない世の中を目指しているようだが。
ただ、皮肉を言えば、今は石油価格も上がっているし、食品の価格も上がっている。なるべく車を使わない生活を目指したり、なるべくご飯の量を減らす生活を目指すように強いられているとも言える。これも考えようによっては「脱炭素」なのではないか。
石油を使わない、物も使わない、食事もしない、「脱炭素」も下手をしたら、極力代謝を抑えて生活する、南米に棲むナマケモノのような生物に人間がなりはしないか。
地球環境の事を考えれば「脱炭素」は正しいのだろう。だがその方向性が、人間から活力を奪う形に結び付くのは危険だと考える。ナマケモノはまだ生きているけれど、それ以上の脱炭素を目指そうとしたら、人間は活力のある生活をせずに、「冬眠」するべきだ、という極端な考え方だって出かねない。
まだ世界的に、次の世の中は何に向かって活力を出すか、決まっていないように私には見える。そのために世界の経済は停滞し、冷え込みが続いている原因になっているのだろうが。
いずれ、次の世界の目標が決まって、また活力のある世界になるとは思うけれど、まだその時ではないみたいだ。
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