2021年 9月26日

 9月も終わりに近づいてきたけれど、なかなか晴れが続かない天気は相変わらず。この週は晴れが安定するかと思ったけど、水曜日の夜には激しい雷雨があったり、土日は雨が降ったりやんだりの天気。また台風が来るという話もあるし。

 新型肺炎の緊急事態宣言はそろそろ解除らしい。道志川沿いのキャンプ場は、すでに営業しているところもあるけれど、いま休業しているところも、10月になったら再開するらしい。もちろんこの結果、人の移動が急激に活発になって、また疫病の流行が拡大する可能性もあるのだけど、様子を見ながら対応を決めていこうという事なんだろうな。

 先日、藤野の選挙区の政治家が、車を走らせながら演説していた。疫病での自宅療養をやめさせ、ホテルなどの専門施設での療養にすべきだ、と。

 私は、現在行われている、いつ急変して悪化するか分からない患者を自宅でなんとかしなさい、というやり方は失政だと思っている。こんな手法に「療養」なんて言葉を使うのが間違っている。失政が続く状態になると、言葉の使い方がおかしくなっていく。使う資格の無い言葉を使う例も増えてくる。福島の事故を起こした原発を「コントロール下に置いている」なんて表現も、使う資格のない表現だろう。

 次の首相候補を決める作業をミヤコでは行っているらしいが、なんか総じて中身が無いように感じる。これは、その候補者たちの頭が空っぽだとかいった悪口の話ではなく、候補者よりも民衆に問題があるんじゃないかという話。

 中身のある政治と言うのは、民衆がそれを望み、為政者がそれに応え、その結果世の中に喜びが増えて行く、そういった政治の機能が充実している状態を私は言っている。ただ、どうも今の日本人は、何が望みで、何が自分の喜びなのか、強い実感を伴って想像出来ていないんじゃないかと思う。

 そりゃあ、今だって問題は沢山あるし、貧乏だって貧困だってある。以前よりも悪化しているかもしれない。それでも、終戦直後のような、焼け野原が広がって食うにも困る状態のような、民衆が一丸となって豊かで安定した生活を祈るような時代ではない。民衆の側に明確な望みと目標があり、それに政治が答えるという時代ではないのだ。

 そんな時代的な弛緩した空気の中で、腐敗が進んだとも言えるのだけど。

 まあ与党にせよ野党にせよ、これから真に民衆から支持されたければ、民衆が喜ぶことをするしかないよなぁ、と思う。

 先日、例の首相候補者たちが討論の場で、靖国問題で意見が分かれた云々、といったニュースの見出しを見た。靖国問題なんて、日本人が望んでいる問題解決候補の、100位の順位の中にも入らんだろう。なんかやってることがオタクっぽい。

 こんな動画がユーチューブにある。井上陽水が自身の歌「長い坂の絵のフレーム」について語るもの。

長い坂の絵のフレーム

 ここでこんな表現がある。「これから何があるかという事よりも、これまであった事柄を確認するのが嬉しい年代になってきた」。

 もしかしたら、日本と言う国も、そんな状態になっているのではないか。未来よりも、過去を語ることに喜びと熱意を見出す状態に。靖国問題を見るときに、私がいつも感じる印象はこれだ。

 何か新しい事、今までにない事、過去には想像もつかなかったことを目指して、それを嬉々として楽しみながら、充実した生き方を追求する。そんな時代は終わり、すでにできてしまった「かたち」を維持するだけに、労力と人生を割く時代。

 まあ、まずは自分自身の事を考えようとは思う。何が喜びで、何が望みか。あと私は、こうも考えているのです。

 これからの時代は、60代になったから、70代になったから、高齢になったからといって、未来よりも思い出に浸る生き方をするというのは、必ずしも一般的じゃなくなるんじゃないかなぁ。

 いつまでも追求できるライフワークを持つ人が、ごく普通になるような、そんな風潮の時代になってくると思う。じゃないと、つまらないでしょ。

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