梅雨明け後、やはり猛烈な日射と暑さに打ちのめされるような日々が続くが、夜は寝苦しいような事にはならず、冷房いらずで快適に眠れる。藤野のような山里だと当たり前と思われるかもしれない。実際、私が藤野に越して来た20年前なら当たり前だった。それが、ここ5〜6年くらいからだろうか、いつもだったら夜になれば山の上から涼しい風が降りてくるはずなのに、まるで空気が止まったかの様に風が吹かず、寝苦しい熱帯夜に近い気候の日々が増えて来た。こんな所からも、気候の移り変わりを感じさせるが、今年の夏は、そのような寝苦しい夜は訪れていない。
土曜日の夜から日曜日の朝にかけて、日本の東海上を台風が通過して行き、藤野もそれなりに大雨が降った。と言っても、土砂災害を心配するほどの雨にはならなかったが。
自分も参加している田んぼに、除草機をかけた。アルミ製の軽い機械で、田んぼの稲の間をゴロゴロと転がして行く。簡単な仕掛けだが、それによってアルミ製の歯が稲以外の草を巻き込んで、土の中に埋め込んでしまう。これで除草が完了するわけだが、この機械の効能はそれだけではない。実は、この機械を田んぼの中で転がしていると、稲の根も、少しは傷つけるとの事。それでは稲に被害がありそうだが、逆に稲は元気が出て分けつが進み、育ちに勢いが増すという。
便利な機械だけど、これを使うには、田植えの時に、稲の列を縦も横も綺麗な間隔で植えるような工夫が絶対に必要になる。
新型肺炎の警戒宣言で、やまなみ温泉も休業になった。そのうえ神奈川県は、緊急ではない手術や入院はやめてくれと言い出した。医療の現場が逼迫しだしたのだろう。
しかしなぁ、新型肺炎が流行り始めて1年と半年だけど、その間に病床や検査態勢の拡充とか、できなかったのだろうか。この事で神奈川県を無能と罵るつもりはないけれど、かといって上出来とはいいかねる。もちろん、県だけに不出来の責任を追及すべきではなく、国に対しても追求すべき事柄なんだけど。
ここ数年で、いよいよ明瞭になって来た事がある。この世の中にはいろいろと問題があるが、その問題の解決が、なかなか速やかに的確に進まない理由の最たるものが、世界が利権で動いているという事だ。
何か問題を解決しようにも、問題を解決すると従来の利権構造が壊れてしまう可能性が見えたら、とたんに問題の解決は先送りにされてしまう。もしくは、従来の利権構造を更に肥え太らす形の方策に改変して、問題の解決をむりやり進めようとする。結果、当然ながら問題の解決は効果的に進まない。
酷い場合は、利権構造を守る為には、問題が更に深刻化して人命を損なってもかまわないという姿勢すらとる。
その事について、失望したり怒ったり嘆いたりする人は多いだろう。でも、20世紀までは、だいたい利権構造がそのまま動く事で、民衆の幸福も同時に満たされる場合も多かったんだよね。それが21世紀になって、そうもいかなくなってきた。利権構造の幸福と、民衆の幸福が同調しなくなって来たし、むしろ、利権構造の幸福を求めようとすると、民衆に不幸を要求するようになってきた。
ここから、新しい流れが始まって来るのだろう。まだ今は小さな流れだが。
正しい世の中の在り方、正しい人の在り方、「正しさ」とは何だろう、という思索と希求が始まってくる。その間、明らかに間違った世の中の在り方の事例や、間違った人間の在り方を体現した人間が、テレビや新聞やネットをにぎわし続けるのだが。
「世の中は、正しくあらねばならない」なんて主張は、青臭く、世間知らずの幼稚な意見に聞こえるかもしれないな。でも私はこう思っている。
たぶん、これからしばらくの間、自ら「正しさ」を希求する精神を持った人や組織でないと、生き残れないだろう。その精神を持っていない人間は流されるだけだし、組織は解けてしまう。
前の日記で、令和という元号には、なぜか裁きの響きがあると書いたが、その事も関係している。
これからしばらく、いろいろと混乱する時期が続くと思うけれど、「正しさ」について語り合える仲間がいるかどうかで、生き残れるか流されるかの明暗が分かれるんじゃなかろうか。
企業などの組織でも、要所要所に「正しさ」について語り合える人を配置できる所は、健全性や自浄作用を保ち続けていけるだろう。これが、利益追求の精神だけだと、危ういと思う。
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