2021年 8月1日

 8月に入る。梅雨明けに伴って、夏の気候が安定するかと思ったけれど、週の初めに通過した台風の影響で、この週は各地で乱れがちな天気になった。台風そのものは雨も風も、それほどではなかったのだけど、湿った暑い空気を送り込んで来たのだろう、その後毎日の様に各地で集中豪雨があり、ある所は道路が冠水したとか、ある所は川が溢れたとか。天気が安定するのは次の週になるみたい。

 新型肺炎は既に非常事態宣言下だったはずだが、今度は緊急事態宣言が出された。何でも神奈川県版らしい。これによって市の施設も使えなくなる所が出てくるが。

 道志川沿いのキャンプ場だけど、これを受けて、早速休業に踏み切った所と、まだ営業を続けている所がある。せっかくの稼ぎ時だけに、各キャンプ場も厳しい判断に迫られているんだろうな。

 感染者の数が急に増えて、この調子ではまた、「県境をまたいだ移動はしないでくれ」、と言い出すかもしれないな。これからお盆の帰省シーズンなんだけど。

 牧馬のある篠原地区では、夏祭り前に行う「道つくり」(道路沿いや神社の草刈り)は行うが、祭りそのものは自粛が決まっている。草刈り作業の後には例年、宴会があるのだけど、これも無くなった。道つくりは8月7日の立秋。今年も、静かな夏になりそうだ。

 過去に行ったいじめが今になって糾弾されて、立場を失った音楽家がいる。前から思っているのだけど、「令和」って時代には、妙に「裁き」の印象がある。今まで許されて来た事柄でも、まとめて責任をとらされて腹を切られるような、冷たい厳しさを感じる事があった。

 おそらく、「いじめ」についての世間の認識は、10年前や20年前より、これからは厳しいものになっていくように私は思っている。いじめという行為を、明確に犯罪として捉える様になっていくのではないか。

 私がそう考える理由の一つに、ひきこもりの問題がある。今やひきこもりは若者だけの現象ではなく、40代や50代のひきこもりも問題になっているそうな。ひきこもりの原因のすべてが「いじめ」にあるわけではないだろうが、「いじめ」には、いじめられた人に対して、心に深い傷を作り、世の中で自分の幸福や可能性を追求して行こうと言う意欲を失わせる作用があるのは確かだ。

 「いじめ」がきっかけになって、世の中でのびのびと生きて行く道を塞がれるとしたら・・・、いじめをされた時点で、その人の事実上の人生が終了すると考えれば・・・極端な言い方をすれば、「いじめ」も殺人に近くなる。そう考えれば、加害者の責任と罪は、もっと重大に考えられる様になってくるだろう。

 上記の考えに対して、こう反論する人も多いかとは思う。「いじめをきっかけにひきこもりになるのではなく、いじめを克服し、いじめに負けない力強い人間として成長すべきだ」と。

 どんなに時代が進んでも、いじめをする人間がゼロになる時代にはなるまい。人生のどこかで、いじめを経験する機会は出てくるはずだ。いや仮に、いじめをする人間がゼロになっても、人間には理不尽な不幸が襲いかかってくる経験はゼロにはできない。地震や水害のような天災を例にする事も可能だろう。

 自分の身に襲いかかってくる理不尽な暴力に対して、それをしなやかに克服し、その経験を糧にして、より力強い人間へと成長して行く、それこそが理想だろう・・・という意見には、常に説得力がある。

 人間には、不幸に打ちのめされても、自ら立ち上がる力があるかもしれない。ただ、その為には、その人の周囲に、「一緒に立ち上がっていこう」と優しく励ましてくれる人がいてこそだと、私は考えている。そういう周囲の優しさとともに克服していけば、いじめを受けた人も、次は、自分以外のいじめを受けている人に対して優しく手を差し伸ばす側に立つかもしれない。

 そういった、周囲の優しさなんかなくても、自らの力で立ち上がるべきだ、という考えには、私は抵抗がある。「他人の優しさに触れる事も無く、私は独力で不幸を克服したのだ」、という人は、自分以外の人に対しても、「お前は、お前の不幸を独力で克服しろ、それができないのはお前が弱いからだ」と言いかねない人間になりはしないか。

 人は誰でも、弱い所から出発する。「今は弱くても、一緒に力強さを身につけて行こう」、と励ます優しさは、人間らしい世の中を作る上で、不可欠だろう。

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