夏本番。強い陽射し、蒸し暑い空気、蝉の声、夏休み、川遊び。いかにも夏まっ盛りという感じだけど、既に夏至から一月経ち、陽の高さも日照時間も盛りを過ぎている。朝の4時では暗くなってしまい、朝という雰囲気ではなくなって来た。気の早いススキが穂を出し始めている。
この土日に、道志の道を、オリンピックの自転車競技で使われた。それに合わせて交通規制も行われ、あちこちで渋滞もあったらしい。もっとも、交通規制が無くても、夏休みに入ってからの4連休なので、オリンピックが無くても渋滞はあっただろう。
それにしても、何もこんな暑い盛りに競技をしなくてもなぁ。新緑の晩春とか紅葉の秋とか、道志の道を駆け抜けるのに、もっと適した季節があったろうに。
先日、草刈りで石を弾いて車のガラスを割ってしまったが、その後も家の周りの草を刈っている。こればかりは、しないわけにはいかないからな。山の草の生える勢いは強く、たちまち人の腰くらいの高さの草むらになってしまう。こうなると、草むらの所の地面は、雨が降らなくても湿気が溜まって、常にじめじめするようになる。家の周りがこんな状態だと、家が腐るのもずっと早い。
前々回から続けている残土処分場の話について、もう少し続ける。私の様に残土処分場に対して反対している人間に対して、こういう問いかけをする人がいる。
「そうは言っても、残土の発生を全く許さないと言うわけにも行くまい。どこかに残土処分場を造る必要は、必ずあるのではないか。」
例えば私が家に地下室を造りたいと思えば、当然残土は発生する。発生した残土はどこかに運んで適正に処理しなければならない。社会に必要なものなのだから、残土処分場も受け入れなければならない、という意見だ。
この見解に対して、私はまずこう答える。そもそも残土処分場と言っても、その形式は「残土を山の斜面にへばりつけさせる」というものだ。どんなに法律に則った適正な処分方法と言っても、どんなに排水設備の設置や崩落を防ぐ工法を行うと言っても、山の斜面に「へばりつけさせる」というモノである以上、その土地が、より危険になる事はあっても、より安全になるというものではない。どんなに真面目に造ったとしても、10年や20年の単位ならまだ保つとしても、50年、100年と言う単位で見れば、やはりそれは「負の遺産」なのだ。
「残土処分場だって必要な存在ではないか」、と言う人に対しては、まずは、この「負の遺産」という点を強調しておきたい。
この「負の遺産」という認識が共有されれば、ようやく社会全体で、少しでも残土を出さない世の中の在り方にしていこう、という機運が産まれる。この機運がないと、世の中の多くの人々は「残土なんて、自分の目の届かないどこかに捨ててしまえばいいんだ」という考えから脱却してくれない。
残土処分場と言うものが、どこかで、人々の生命と財産を危険にさらしていると、多くの人が自覚してくれれば、じゃあ、少しでも残土を造らない世の中にしていこうと世の中が動いて行く。高速道路を造るのでも、トンネル工事などで出た残土を、築堤を造るのに使ったりして、高速道路工事全体では残土を発生させない工夫をしていく。
また、ある町で出た残土は、どこか遠い所にもって行ってしまえばいいと考えるのではなく、その地域で出た残土はその地域で処分する様にする。こんな残土処理の枠組みが出来上がれば、人々は極力残土を発生させようとはしないように知恵を使い始める。
「残土処分場だって必要だろう」と言う前に、このような努力を十分にやるべきだ。そうでないと、努力も無しに、他人に「負の遺産」を押し付けているだけの、ずうずうしい人間だと言うことになるだろう。
これは残土に限らない。人間が日々出すゴミの問題だってそうなのだ。
私は人を見るとき、その人の発言だけでは、その人を信じない。その人の実際の行動を見る様にしている。
世の中には「迷惑施設」と呼ばれるものはある。多くの場合、大多数の利益の為に、少数の人が犠牲になる形で、迷惑施設は造られる。前者の大多数の人々は、「迷惑施設だって必要なんだからしょうがないじゃないか」と迷惑施設の存在を肯定する。
しかし、そういう人が、迷惑施設を必要としない世の中を造る為に、何らかの行動を実践しているのは稀だ。
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