2021年 6月13日

 山頭火の俳句に、「わけいってもわけいっても青い山」というのがあるが、今の山の景色はまさにそんな感じだ。どこまで行っても緑一色の山々が連なっている。この週は雨はさほど降らず、30度を超える夏日が続いた。その一方で、風はそれほど湿気も無く、心地よかった感じだった。こんな日に草刈り作業なんてやれば、たちまち日焼けして黒々となる。

 6月に入ったが、案外、雨は少なめで、沢の水量もそれほどではない。ちょっと、田植え前に田んぼに水を引きたいのだけど、水量が足りなくて代掻きにも苦労する。まあ次の週は少しは雨が降るようだけど。

 雨が降ったら降ったで土砂災害を心配し、雨が少なかったら田畑を心配する。山の暮らしは天候の気苦労が絶えない。

 以前の日記で、木材の供給が滞って木の価格が高騰しているらしい、といった事を書いたけど、じゃあ国産の林業を再興させようと考えても、土砂災害で通行止めのままになっている林道は意外に多い。山の恵みを活かそうと考えるのは大賛成だけど、それには長い時間をかけて作ったり維持したりする設備が必要で、いったんその設備が荒廃したら、再建は容易ではない。

 山から伐った木を材木に加工して商品に仕上げていくわけだけど、林業として、産業として成立させる為には、それ以外の所からもお金を稼ぐ工夫が必要になってくる。以前だったら、材木にならない間伐材とかは、割り箸の原料にもなってたけれど、今はどうなんだろう。

 道志川沿いのキャンプ場は、土日にもなれば、各キャンプ場で何百束という薪が消費されるらしいが、せっかくのキャンプブームで、薪の生産拠点が林業にも生まれればいいかなと思う。もっとも、キャンプブームが永続的なものかは判らないけれど。

 林業からは、様々な形でゴミが生まれる。まあそれらを、すべて薪ボイラーで燃やして燃料にしてしまえ、という考え方もあるけれど、燃料にするにはいったん廃材を乾燥させる必要がある。そういった場所を、ちゃんと確保できるかどうか。

 製材所では、丸太を帯ノコで切って材木に加工していくけれど、この際に出てくるおがくずは、牧場とかで引き取られる事が多いみたいだね。厩舎の中におがくずを敷いて(敷料というらしい)、家畜にとって心地よい場所にすると同時に、家畜の糞尿によって汚れたおがくずは、回収されて堆肥工場に持って行って、肥料として加工する。

 木一本の加工から、いろんな分野の産業に原料が流れていく。そういった裾野の文化も含めた全てが、林業と言う産業なのだろう。

 二つ上の写真は、道志川沿いのキャンプ場の一つだけど、満員大入りのキャンプ場も、少し離れた山の上から眺めると、山の河原にぽっかりと現れた小さな村みたいだ。ささやかな人の営みに見えてくる。まあ、もっと近づくと花火の音やらバーベキューの匂いやら、けっこう俗っぽくなるけれど。

 これはあまりにも過ぎた希望なんだけれど、こういったキャンプブームの「その先」を期待したいところもある。どんな形の「その先」かと言うと、今のキャンプは、所詮、一日か二日の自然と触れ合う体験でしかない。もちろん、それで悪いとは言わないし、それで十分な人なら、それで十分だ。

 私が考える「その先」は、さらに山に一歩踏み込んで「山暮らし」をしてもらう、というもの。どういう形が最適かは判らない。貸別荘で1〜2週間住んでもらうとか、春夏秋冬、それぞれの季節ごとに住んでもらうとか。そこで使う食材や燃料も、できるだけその地域で調達して欲しい。

 今のキャンプって、結局、都市で調達した食材や燃料を山に持ち込んで、山で消費して、そのまま帰るだけなんじゃなかろうか。まあ山の空気を吸うだけでもいいのかもしれないけれど。

 ただ願わくば、いま提案したような、もうちょっと深い山との付き合いをしてみて、その土地の人に知り合いが出来る程度の、地元との交流があれば、もっと面白い効果が生まれるんじゃないかなぁと考えている。

 単なる消費者として山に来るのではなく、山里を共に育てる仲間になるような交流。山里がその人にとって、第二の故郷になるような、そんな付き合いの形。

 望み過ぎだろうか。

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