17日の土曜日には、ややまとまった雨が降った。豪雨と言う程ではないが、ざあざあ雨という感じには降り続いた。翌日の日曜日は、空気の汚れを雨が流してくれたかのような、すがすがしい晴天になった。
このような、少しまとまった雨が降る場合、沢や川の水が濁るものだが、これが沢や山の違いによって、濁り方に随分と差がある。少々の雨でも黄土色に濁る沢もあれば、多少の大雨が降る程度では全く濁らない沢もある。
この差は、山の地質の違いもあるのだろう。山によって、崩れやすい山もあれば、崩れにくい土の性質の山もある。また、むやみに開発して植林の木しか無いような山も、濁りやすい性質があるかもしれない。こんな事を日頃から注意して観察していれば、土砂災害の起こりやすい沢がどこか、推測する手助けになるかもしれないな。
牧馬から中沢へ至る道の、一昨年の台風で崩れた箇所の修理工事は、引き続いて行われている。工事終了までに、6月下旬までかかるそうな。昨年は、あまりたいした水害の雨は降らなかったけれど、一昨年の水害を思うと、ついつい、「今年は大丈夫かな」と考えてしまう。
それにしても、この新緑の時期の、むせ返るような新しい生命の息吹は何だろう。たしかにこの世には豪雨も降れば土砂崩れも起こるけれど、春になれば、そんな傷跡を覆い尽くす様に新しい生命が溢れていく。この光景は、単に美しいだけではなく、救いでもあるのだろう。国破れて山河あり、に代表されるような東洋的な感覚・・・人間の営為よりも自然は更に偉大で美しいという感覚・・・は、私にも実感としてある。
これから世の中の構造がいろいろと変化していく中で、この世から必要とされなくなる仕事も出て来ると言われる様になって、随分経つ。これからどんな仕事をしながら生きていけば良いのか、悩む事も増えて来るかもしれない。
そんなとき、最後の最後に人々の支えになるのは、この新緑のような、大地から湧き出て来る生命ような豊かさではないかと思う。これは何も、次の時代は農業が主力だと言っているわけではない。
その土地から生まれ出て来るものを、有難く頂き、育て、生活の糧にしていく。そこから、その土地ならではの産業も生まれるだろうし、文化も育ってくる。
今はそうじゃないからね。生活の糧は、どこか遠い所で作られる物がほとんどだ。
仮に、そんな風に、その土地から生み出される物で暮らしが成り立つ様になった時、世の中は、少し落ち着いていると思う。
例えば、今の場合、まあパソコンでも作るとしましょうか。原材料を集めて半導体を作るのも、最新のコンピューターを作るのも、最新のソフトウェアを作るのも、すべて競争になる。同業他社に先を越されない様に、最も安い値段で作って売れる様に、安い原材料費、安い輸送費、安い人件費を求めて世界中を駆け巡る。今年もっとも人件費で有利だった国も、来年は違っているかもしれない。
そんな状況だと、商売する方だって、先手先手を読みながら、もっとも経営的に有利な土地に、本社機能や工場を移転したりするだろう。そうなると、会社や工場がその土地に今後も存在し続ける保証は無くなる。企業や産業といったものが、その土地に根ざさないものになり、その土地からいつ消えるかわからない、はかない物になっていく。
そのような時代になると、精神的な不安に耐えられなく人も出て来るんじゃなかろうか。昔ながらの、先祖代々の土地を耕して、別に世界のどことも競争するでもなく、むしろ競争どころか、一歩遅れるくらいの生活をのんびりと暮らしたいと考える人も、出て来るんじゃないかなぁ。
これまでの世の中、どうしても競争原理で動いてきた以上、人よりも先んじて何か新しい事をしなければ将来が無くなってしまうと言う危機感に駆られて動いて来た所がある。
でも、どうかなぁ、未来は。畑でジャガイモでも育てる様に、自分の周りの人が種芋を植え始めたから、じゃあ、自分も、一歩遅れたかもしれないけれど、同じ事を始めるベエ・・・ぐらいの、のんびりした生き方でもゆるされるようになりはしないか。
活気はないかもしれない。進取の精神も無いかもしれない。どこか眠たげな、退屈な世の中かもしれないが、そんな時期もあってもいいかと思う。
「生き馬の目を抜く」の反対の表現は、何だろう。
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