藤野の桜はほぼ満開に近い。今夜は強めの雨になると言うが、せっかくの桜が散ってしまうのか、それとも意外としぶとく残ってくれるのか。明日の29日は満月なので、うまくいけば、満開の桜と満月を楽しむ事が出来る。
西行の辞世の歌とされる、「願はくは 花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」だけど、実際はいつ頃歌われた歌なのかは不明らしい。ただ、満月と満開の桜なんて、なかなか一致する物でもない。そう考えると、この先の人生で、満開の桜と満月を同時に見られる機会となると、そうあるものでもないんじゃないかと気づく。まあ、明日は存分に楽しもう、桜が風雨に散ってなければだけど。
ただ桜って、どうしても、厳粛に物事を考えてしまうような気分にさせてしまう花だね。なんか「時間」とか「未来」とか「過去」とか、「生と死」とか。見ていて、この世ならぬ雰囲気というか、非現実的な夢のような世界を垣間見せると言うか。そんな雰囲気が、人に物思いに誘うのだろう。
非常事態宣言が解除されての休日とあってか、やたらと行楽の車が多かった。道志川沿いのキャンプ場も満員になっていた。数年前までは、桜の季節のキャンプ場なんて、数えるほどの客しかいなかったけどな。
別に疫病の封じ込めが出来る目処がついたから非常事態宣言が解除されたわけではない。ここでさあ花見だ行楽だと人々が動き出せば、また流行が始まるような気がするが、それはこれから結果がでるだろう。ただ、私の意見としては、キャンプとか花見とか、風通しの良い屋外で、人と人との間隔を空けて楽しむような行楽なら、まあ大丈夫なんじゃないかなぁとも思う。もちろん、私は疫病の専門家じゃないので、まるで根拠の無い私見なんだけど。
少なくとも、満員電車の事を考えれば、ずっとマシなんじゃないかなぁ。
私は政府が進めて来た「旅行に行け」キャンペーンなんて大嫌いだったが、まるで真逆の事を言って矛盾するようだけど、こんな厳しいご時世、人ごみの無いような、誰も行かない所に一人旅をするのは、良い事なんじゃないかと思っている。物見遊山の旅行ではなく、自分を見つめ直し、世界を見つめ直すような旅。
たぶん、今までの世の中って、だいたい、周りの人間と同じような生き方を選んでいれば、それだけで大過ない生き方が送れるような状態だったと思う。でも、もうそんな時代でもなさそうだ。
自分の周囲の生き方の真似ではなくて、自分自身で考えて、自分自身で決断して、自分独りで切り開いていく覚悟が、必要になってくるんじゃないかしらん。
長い物に巻かれている安心感というのもあるだろう。大船に乗っている安心感もあるだろう。大樹の下に寄ることで得られる安心感もあるだろうと思う。でも、どうやらそれでは安心感が得られないと気づいた時、それどころか、かえって暗い未来しか見えないと気づいた時、そこから独りで飛び出さざるを得ない局面も出て来ると思う。
別に私は大組織を否定しているわけではない。大組織でなければ成し得ない仕事も沢山ある。ただ、身も心も大組織に依存しきっているのか、いざという時は独りで飛び出せる覚悟があるのかで、明暗が分かれる時代もあるだろう。そんなとき、誰の助けも得られないような、心細い孤独な旅を経験した人には、何かしらの強さが宿っているはずだ。
なんで私がこんな事を考えているかと言うと、どうもこのところ、既存の大組織に揺さぶりをかけるような出来事が重なっているように見える。まあ偶然ではあろうけれど。
新型肺炎の流行で人の移動が制限されたかと思ったら、スエズ運河で事故が起きて、物流に影響がでるらしい。まあこれは、さすがに数週間もすれば元に戻るとは思うけれど。
私の的外れな思い込みには違いない。しかし、どうもこの世界は、様々な方法で既存の世界にゆさぶりをかけて、新しい世界の形へと進ませようとしていると感じる。実際に人々が本心で進路を変えるまで、揺さぶりは続くのではないか。
ヨーロッパを中心に、産業構造を、なるべく化石燃料を使わない形にしていこうという動きがある。いずれ、様々な工業製品に、「この製品は二酸化炭素を排出せずに作られました」という認証が必要になる世の中になるかもしれない。
その場合、船で輸出する際に使われる燃料も考慮されるだろう。日本で作って、船で重油を消費しながらヨーロッパに輸出しようとしても、高いペナルティーを払うか、最悪、受け取りを拒否される時代だって無いとも限らない。自然由来の再生可能エネルギーで動く船でも作らないと、輸出産業で生きていくのが難しくなってしまわないか。
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